哲学の事柄

自由


事柄
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生命 人間 自我 時間 善悪 権力

 人間は自由なのであろうか。一方で、すべてはあらかじめ決定されていて、偶然も自由も存在しないと主張する考えがあり、他方で、必然性からの逸脱が可能で、とくに人間はその意志により必然性に反して振る舞うことができる、という考えがある。前者は決定論、後者は非決定論と呼ばれる。

 硬い決定論
 決定論には、論理的な決定論や、神学的な決定論(予定説)、心理学的な決定論などがあるが、ここでは物理学的決定論に話を限定しよう。決定論のうち硬い決定論と呼ばれるものは、自由を端的に否定する。硬い決定論によれば、世の中のすべての出来事は未来の出来事も含めて、因果関係によってあらかじめ決められている。どんな出来事も偶然起きるのではなく、原因があって起きるのであるが、それが起きる諸条件から一義的に規定されている。出来事は、起きた以上、それ以外の仕方では起きなかったのである。世界は必然性に支配されており、偶然が入り込む余地はない。

 意識の迷妄
 人間だけはこうした因果関係から独立に、自らの意志で自由に行為できる、と思われるかもしれないが、このような「自由だ」という意識は、決定論によれば、自分の行為を決定している諸要因を知らないことに由来する迷妄である。今日学校に行かないことを自分で決めたように見えても、そのときの気分や体調、気候(温度・湿度)、昨日学校であった出来事など、さまざまな要因の複合的な因果作用の結果なのである。人間の内面や精神は物質界を支配する因果関係が入り込まない特別な領域であるように見えるが、感情や思考などの現象は脳に起きている生理的な現象であり、生理的な現象は複雑な物理現象である。

 軟らかい決定論
 軟らかい決定論というものがあり、これは、硬い決定論と同様に、すべては因果的に決まっていると考えるが、しかし、自由が存在することを承認する。自由を必然性からの逸脱という意味ではなく、外的強制の不在(自発性)という意味で理解すれば、自由は決定論と両立する。たとえば、水はそれ自身の法則に従って流れていくかぎり自由であり、逆に、せき止められれば自由を失う。人間もまた、状況や権力から強制されてでなく、自分の意志や欲求から振る舞ったのであれば、自由である。その行為が自由なのは、行為の原因が行為者の内部(意志、欲望など)にあるからである。

 決定論に対する批判
 だが、1)決定論は証明しようがない。宇宙の初期状態とすべての自然法則を知れば、その知識に基づき未来を予言できる。そして実際、何もかも予言通りに起きるならば、決定論は正しい。しかし、そのような知識は不可能なので、ある出来事が起きても、それが必然的に起きたのか偶然なのかは、わからない。2)犯罪を犯しても、決定論によれば、さまざまな因果連鎖の結果としてそうするほかはなかったということになる。だが、そうすると、もはや、行為の道徳的責任を問うことはできなくなる。
 3)物理学的な決定論はニュートン物理学に基づいているが、われわれは現代の物理学を知っている。量子力学によれば、運動する電子の位置は確率的にしか分からない。量子の世界だけではない。ウィーナーは因果作用を含めた情報の伝達にノイズが不可避であり、物理学は物理現象を確率論的にしか扱えないと言う。

 非決定論1――自由の世界
 非決定論は自由を積極的に承認しようとする。
 非決定論のもっと典型的なものは、因果律が支配する物質界とは別に、因果性から独立した領域を設けることによって自由を確保しようとする考え方である。この自由の領域はたいていは人間の内面に求められる。カントでは、人間は感性的な存在であると同時に理性的な存在であり、理性的な存在者としては、自らが立てる法則に従うことによって自由である。ベルクソンによれば、進化の過程で、生命ないし意識の発生とともに、選択と創造の過程が始まった。生命は必然と惰性の支配する物質界に、自然のエネルギーを利用して介入することができるという。サルトルは、人間を自由と端的に同一視する。彼にとって、意識は存在の否定(無化)であるが、自己自身を意識する人間は、たえず自己を否定して、他のものになることができる。

 物質からの影響
 こうした非決定論において、自由の領域は原因として物質界に影響を及ぼすことができるが、物質界は自由の領域に影響を与えることはできないと見なされている。だが、精神安定剤などの薬物は精神の状態に影響を与えるので、実際には物質界は意識に影響を与えると言わなければならないであろう。

 非決定論2――必然性の認識
 必然性を認識することによって、必然性から自由になることができると主張する非決定論もある。ある出来事の意味がわかってくるのは、しばらくあとに出来事を反省したときである。だから、認識は認識されるものから距離をとるという意味がある。認識によって人は必然の世界から自由になれるというわけである。だが、認識は認識されるものの影響を完全に遮断ことはできない(それどころか、認識そのものがそのような影響のひとつの形式なのである)。
 あるいは、こういうことかもしれない。自然の因果性を認識できれば、自然を予測し制御できるようになる。人間は必然性の奴隷ではもはないという意味で、自由である。しかしながら、決定論は、そのような予測や加工といった高度な精神的活動そのものも、複雑な因果関係に支配されていると言うであろう。
 したがって、必然性を認識することにより必然性から自由になれるとは言えない。

 決定論の誤り
 自由を人間の内面に確保しようとしたり認識に求めようとしたりするこれらの非決定論は、決定論を認めた上で、決定論を免れる方法を探し出そうとしている。決定論は前提とされたままなのである。だが、そもそも、決定論は正しいのか。すでに述べたように、素粒子のレベルでは決定論は成り立たないし、ウィーナーによれば、エントロピーが増大する世界では、われわれは原理的に、出来事の初期条件を正確に知ることはできない。自然法則と呼ばれているものも、新しい観測方法や分析方法によって修正されたり排棄されたりすることを考えると、自然の背後にあって自然を動かしている原理なのではない。

 優勢な可能性
 自然も社会的な現実も、完全には決定されていないのである。現実は決定されていないが、だからといって、まったくデタラメだというわけではない。おおまかな傾向は存在し、同じ出来事は同じような条件のもとで同様の結果を惹き起こしやすい。物を抛(ほう)ると、加える力や方向が同じであれば、似たような軌跡を描く。だから、われわれは自然法則を引き出すことができる。
 言い換えれば、現実は可能性から構成され、そこには優勢なものとそうでないものがある。優勢な可能性とは、実現(現実化)されようとしている可能性ということである。多くのものはこの可能性に従う。しかし、優勢な可能性の陰には、つねに、劣勢の諸可能性が潜んでおり、これらの諸可能性が優勢にならないとはかぎらない。つまり、優勢な可能性は優勢であるというにすぎず、決定的な可能性なのではない。

 自由と非決定論
 世界は必然の世界なのではなく、必然と偶然のあいだにある。傾向の世界、優勢であったり劣勢であったりする可能性の世界である。このことは物理的な世界についてさえ言えるので、生命現象や、社会的現実にはなおのことあてはまる。カエルの子はカエルである。ある新型の病気はこれで終息しそうである。本革製品は手入れしないと、いたみやすい。民心を理解しない政府は崩壊しやすい。Aさんは普段は優しいが、怒らないわけではない。
 可能性が拮抗しあっている場合もある。コインを投げて、表が出るかもしれないし裏が出るかもしれない。この乳幼児は将来、エンジニアになるかもしれないし、弁護士になるかもしれない。いま起きている経済的な変化は、将来の破局的な経済の前触れかもしれないし、そうでないかもしれない。

 自由と非決定論
 決定論的な世界観が支配的になると、自由として経験されているものはいったいどうなるのかということが問題となり、自由を正当化しようとする試みがなされた。だが、いま述べたように決定論は無効なのだから、われわれは決定論に対して自由の存在を擁護しようとする必要はもはやない。現実は非決定論的なので、必然と思われたものからの逸脱はたえず起きている。運動するボールは、それが転がっていく地面の地形、風向き、ボールの重さなど、さまざまな要因の複合的な作用の結果であるが、しかし、これらの要因はボールの運動を完全に一義的に決定するものではない。

 さまざまな制約
 それでは、狭い意味での自由、つまり、人間がもつ自由とはどんなものか。
 人間が自然や社会的現実から独立に何かを決められるというのは、間違いである。ひとは物理的な環境や生理的な条件、社会、言語、その人の性格、そのときの状況など、もろもろのものによってつねにあらゆる局面において制約されている。言い換えれば、人間は、物理的、生物的、社会的な優勢な可能性にもて遊ばれている。
 しかし、自然や社会に人間が制約されているということは、自由がないということではない。というのも、制約している当の自然や社会がそれ自身、決定されたもの(必然)ではないからである。それは優勢であっても、可能性であることには変わりない。しかも、優勢な可能性は、実現をいまのところ阻まれている多くの可能性をはらんでいる。

 人間の自由
 近代哲学や実存主義は決定論に譲歩して、自由を人間の内面に追いやった。しかし、自由は内面と言うよりはむしろ、外にあると言うべきであろう。人間の自由とは、このように外から与えられ、われわれを制約している生物的、社会的な諸可能性を引き受けて実現することである。このことは、可能性の側から言えば、可能性がその個人を通して実現する、ということになる。可能性は実現に近づいたり実現から遠のいたり、また他の可能性と競合する。個人はこの可能性のたわむれに参与する。右を行く道を選んだが左を行く道も選ぶことはできたというとき、右の道を選ばせた理由や動機、事情があったのであるが、しかし、岐路に立たされてしばし迷ったとき、わたしは二つの可能性が交差する出来事に出会ったのである。これが自由である。