哲学の事柄

「日本に哲学なし」


事柄
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生命 人間 自我 時間 善悪 権力





 日本と哲学
 「日本に哲学なし」と言われる。哲学研究者は無数にいるが、哲学者はいない、有名な哲学者についての研究は行なわれているが、自ら思索することが行なわれない、というのである。これは残念なことに(例外はあろうが)真実である。哲学者たちは世界というテクストを解釈してきたが、ほとんどの日本人はその哲学者たちのテクストを解釈しているだけである。

 哲学者研究の正当性
 確かに、ある哲学者のあるテクストや他のテクスト(同じ哲学者の別の時期の、あいるは、同じ時代の別の哲学者の、等々)との連関を解釈する釈義的な研究は、それ自身まったく正当であるし、そのような哲学者研究に没頭している人間がいてもいい。あるテクストについて、新しい解釈を示して、従来の解釈を修正したり批判したり補ったりすることには、一定のオリジナリティーがある。
 だが、もちろん、文献解釈に没頭するにしても、哲学をやる以上、少なくとも頭の片隅に、たとえばハイデガーを研究するなら「存在とは何か」という根本的な疑問を置きながら、研究しなければならない。それはちょうど、まっとうな生物学者なら「生命とは何か」という問いをどこかで持ちながら、そのときそのときの研究課題に従事しているように。

 テクスト変換──哲学者のテクストの解釈から世界というテクストの解釈へ
 画家の卵たちは巨匠の絵を模倣しつつ学び、いつか自らのスタイルを確立して、画家として独立する。もちろん、哲学も最初は、優れた哲学者のテクストを解釈することから始まるのであり、始まるべきである。哲学は哲学研究と矛盾しない。しかし、それを超えなければならない。もちろん、人間は有限で、無から新しい哲学大系は作れないから、組み合わせて創造するのである。いろいろな哲学者を解釈しつつ、その哲学者がいかに世界というテクストを解釈しているかを知り、その世界解釈を自らに同化し、自らの経験・体験や他の哲学者の世界解釈と調停し発展させて、自らの世界解釈を形成していくのである。この際、哲学者のテクストから世界というテクストに解釈の対象が移動する。これをテクスト変換をかりに呼ぶ。

 日本と哲学2
 しかし、日本人はなかなか自らのスタイルを確立するまでにいたらない。これにはいろいろな理由や背景が考えられる。
 1)日本には文学的感性の伝統はあっても、合理的で深い思索の伝統がない、というのが一番の理由であろうか。2)日本人は明治維新以来、西洋の文明を取り入れてきたが、哲学も、それどころか学問全体が、そのように無批判に模倣し摂取すべき文明の一部であった。3)自己主張を抑えて共同体の和を優先する日本人の伝統的な倫理的風土も不利に働いている。
 4)言語的な壁があって、哲学の内容的理解以前に、釈義上の問題にぶつかってしまうという事情もある。その哲学者が何を言っているかで議論が終わってしまい、議論が終わった頃には、自ら思索するエネルギーをすっかり失ってしまっているというわけだ。また、5)自分がどう考えるかというのはとても基本的なことなのに、思索を簡単には届かない高みに持ち上げて、慎重になりすぎているということもあるに違いない。6)哲学史的・文献学的な哲学研究の方が、客観的で学術的な論文が書きやすく、確実に業績を増やせる、という利点もある。

 7)研究する者の現在の価値観や概念の排して、対象となる過去の哲学をその時代から理解しようとするのはよいとしても、客観的態度に固執するあまり、対象となる過去の哲学は、いわば突き放されて同化されない、つまり、自らの考えに関係づけられないままであるとしたら、テクスト変換はいつもでも実行されない。つまり、客観主義的ないし歴史主義的な態度が、悪く働いている疑いもある。

 哲学史から事柄そのものへ
 そこで、哲学的思索を開始する、つまり、哲学者のテクストから世界というテクストへとテクスト変換を遂行するための一つの方途として提案したいのは、ある哲学者や哲学史のある時代を対象とするのではなく、言語とか教育とか認識とか心身問題とか、哲学の基本的なテーマ(主題、事柄 Sache)を取り上げるように努めることではないかと、私は思っている。哲学を哲学者ごとに分類するのではなく、テーマごとに分類するのである。存在の意味を問うた哲学者を研究するよりも、存在をテーマとして研究し、その過程で、存在を考えた哲学者たちを援用したり批判したりする。この意味で、同じ哲学者研究でも、「誰々における〜概念」というよりは、「〜概念──誰々を手がかりとして」という題目の立て方の方がよいということになる。

 哲学史から事柄そのものへ2
 そういったテーマはもちろん一般的すぎて論じにくい。問題そのものに振り回されてしまう恐れがある。だが、具体的な例から出発したり、そのテーマへのアプローチを限定したりすることによって、議論が散漫になるのを防ぐことができる。一般的であることは、哲学者以外の人たちを含めて誰もが関心を持てるということでもあり、これは哲学を他の学問や日常生活へと開くことになる。ある哲学者はある特定の時代状況に生きた過去の人物であるが、彼が考えたテーマ、たとえば、言語や認識は現代のわれわれも考えることのできる普遍性を持つ。
 哲学者研究ではその哲学者を正しく理解しているかどうかが重要であるが、その哲学者の世界解釈を参考にしながら(一部を取り入れ変形・発展しつつ)、自分独自に世界を解釈しようというとき、哲学者理解の正しい正しくないは副次的な問題となる。正確さが重要であるとしたら、それはその世界解釈が世界(現実)に照らして正しいかどうかであろうが、世界そのものを基準としてある世界解釈が正しいかどうかを一刀両断に決めることができるなら、哲学はもっと簡単だったはずである。

 哲学史から事柄そのものへ3
 哲学は元来はほとんど学問ということと同義であったが、19世紀以来、自然科学や言語学、政治学、経済学などの諸学問が哲学から独立した。そうすると、物理現象は物理学が、言語は言語学が、社会は社会学が研究し、物理現象や社会現象を含む外の世界はすべて、独立新興諸科学の管轄となり、哲学には対象として、人間の主観性しか残されていないような状況となった。近代以来、哲学が主観性の問題へと逃避していったのは、無理もないことである。その主観性も心理学の対象だということになれば、哲学はすでに死んだのであり、暇人が過去の哲学を歴史的に回顧するだけ、ということになってしまう。
 しかしながら、独立諸学の考察方法は管轄対象へのアプローチの一つにすぎないのであり、哲学には哲学の論じ方、総合的で全体的なアプローチ、事柄の基層におよぶような深いアプローチがあるはずである。たとえば、物理学者は当面の細かな課題の解決にいそしんでいるので、物理学者は「現実とは何か」という大きな問題をおろそかにしがちであるが、哲学はそのような問いを立てることができる。もちろん、すでに述べたように、ハイゼンベルクのような偉大な物理学者はそのような問いを立てたのであり、そのかぎりで、彼も哲学者である。

 制度的工夫
 テクスト変換のための制度的な方途は、哲学[研究]者たちに、自分の哲学的立場を公に表明する機会を制度的に増やすことであろう。たとえば、教授就任演説のように、学者キャリアの重要な節目で、そのように自分の立場を表明することを義務づけることである。また、教育上の方法として、大学院で教える教員は、卒論を書く大学生や大学院生たちから研究テーマの相談を受けたときに、まず人物ではなく事柄を与えるのであり、次に、それに参考になるような思想家の名前を挙げるようにし、事柄そのものをその思想家を参考にしながら考えるように促す。




 注の有無(補遺)
 文献学的な哲学研究から離れるには、論文誌や著書に注をつけないようにすべきだという意見を聞いたことがある。だが、人の著書や論文を参考にしたときは、それに賛成するときも批判するときも、思考のきっかけや踏み台とするときも、その書誌情報を書いておくことが、学問的誠実さ、ないしは良識というものであろう。ただ、哲学者のテクストを解釈し、他の解釈者たちのテクストに言及する研究に比較すれば、事柄そのものを探求する哲学論文の方が、結果として注が少なくなる傾向がある、ということにすぎない。