哲学の事柄

言語


事柄
存在 認識 言語 歴史 芸術 自由
生命 人間 自我 時間 善悪 権力




 
 言語とそれが表すものはどのような関係にあるのか。

 道具説
 言語は道具であるという考えがある。道具であるなら、必要なときに用い、必要のないときはしまっておく。道具と言うことは目的を達成する手段ということであるから、よりよく目的を達成できる手段が別にあれば、それに交換すればよい。
 われわれは考え、感じ、現実を認識する。このような精神の内部の活動は自分では分かっても、他人には見えない。だから、これを他人に伝える必要が出てきたとき、他人にも知覚できる形にしてやらなければならない。これが言語である。しかも、言語は省力化という点でも正確さという点でも、意思内容を他人に正確に伝達するのに適した道具である。たとえば、雪崩が起きたことを人に伝えようとするとき、雪崩を人の目の前で人為的に起こさせるというのは大変だし、身振りで表現するのは不可能ではないが、わかりにくいし誤解を与える。言葉で「どこそこで大きな雪崩が起きて、人が埋まった」と言えば、目撃したことを短時間で正確に伝えられる。
 ただし、日本語や英語といった自然言語では、多くの単語が複数の意味を持ち、どの意味で用いられるかは文脈に依存しているので、言語ではあってもなお誤解の余地がある。言語がコミュニケーションの道具である以上、正確な意思伝達という目的はよりよく達成できる方がよい。そうだとすれば、自然言語に代えて、語がつねに一つの意味を持つような言語を人為的に作ってこれを使用するようにすれば、コミュニケーションはもっとスムーズになるであろう。
 ある事柄を表す語は、基本的には、その事柄を表し正しく伝達できるようなものであればどんなものよい。リンゴは日本語と英語では異なる語を用いて表現されるが、どちらが正しい表現ということはない。語とそれが表すものとの間にはどんな必然性もないからである。ある語が何を表すかは慣習として決まっているか、あるいは、あるとき人々が話し合って決められたのである。
 ところが、われわれには言葉をそれが表す事柄と同一視する悪い傾向がある。事柄を表すための道具にすぎない言葉が、事柄に乗り移られてしまう。たとえば、「便所」という言葉を使っているうちに、それが指示する便所の汚臭や汚物にその言葉がまみれてくると感じ、これを避けて代わりに「お手洗い」とか外来語の「トイレ」を用いるようになった。しかし、便所と「便所」という言葉とは別のものである。「アオ」という言葉は青くないし、青い必要もない。
 語とそれが表す事物・事柄との関係は恣意的であるが、ただし、文や文章はそれが表している事実や思想と構造的に同じでなければならない、つまり、正確に反映していなければならない、であろう。どんなにその言語が伝達に適したものであっても、偏見やイデオロギー、不正確な観察によって歪んだ言葉を受け取った人は、発話者の意思を再構成できない。

 世界観説
 だが、言語は単に道具にすぎないであろうか。道具であるとしても、道具を替えることによって、道具を使う者に変化が起きないであろうか。言語が人間の精神活動に本質的に寄与していないであろうか。失語症になると、個々の木は想像できても木という概念(集合)は理解できなくなるという。概念なしに考えることは可能であろうか。考えていたことを書き記すと、考えがまとまり明瞭になるということをわれわれは経験するが、これは言語が頭の中で完成した思考をただ外へ表現するだけでなく、思考そのものを発展させることを意味しないか。
 言語を人間の精神活動の不可欠の要因と見なす考えがあり、これをここでは世界観説と呼ぶことにする。
 世界観説によれば、言語は思考と密接な関係にある。思考とは話されない思考、言葉とは語られた思想である。ダンサーが自分の体を意識しすぎるとうまく踊れなくなるように、言語も表現や文法を意識しすぎるとうまく話せなくなってしまう。これは意識化によって言語と思考が一時的に分離させられるからである。思考と言語が一体になってはじめて、そのおのおのはうまく機能する。もちろん、言語学や言語哲学のように、言語を対象とする思考は可能であるが、その場合でも、言語学者や言語哲学者は言語(対象言語)を言語(メタ言語)によって考えているのである。
 言語は思考だけでなく、認識とも関係が深い。ある国語はその民族の、現実を認識する仕方を制約している。言語はその分節に従って世界を分節し、われわれの目の前に示す。現実そのものはカオスかそれに近いが、言語はそれに秩序を与える。異なる言語を使う民族は、同じ現実を違った仕方で区分する。たとえば、英国人が語彙の上で区別しない米と飯を日本人は区別する。たとえば日本人にとってラクダはラクダにすぎないが、ラクダにかかわる5千の言葉を使い分けるアラビア人には、同じラクダもさまざまな観点から他のラクダと区別され特徴づけられる。
 このように、言語は単なる道具でなく、民族の世界観を体現しており、言語を学ぶことにより、別の世界観を知ることができるのである。

 存在説
 われわれは考えたり感じたりするが、それはしかじかの事柄について考えたり感じたりする。認識もまた、ある事柄の認識である。そして、この事柄は人間精神によって扱われるのをただ待っているのではなく、思考や感情、認識に内容を与え、それを方向づけている。たとえば、あるものは人を怖がらせ、あることは人の興味を惹く。この意味で、思考や認識は思考され認識される事柄の一部である。そして、もし「言語は認識や思考と一体である」という世界観説が正しいとすれば、言語もそれが表す存在の一部であると言える。言語は表現であるとしても、思考や認識の表現である以前に、存在の表現である。
 たとえば、「そこの交差点で交通事故が起きた」という発話は、事故がそのような発話を惹き起こしたという意味でも、また、その分がその事故を記述しているという意味においても、その交通事故という出来事の一部である。これは文のレベルで言われたことであるが、同様のことは言語のさまざまなレベルで言える。「リンゴ」という語はそれが属す言語の組織や他の語によっても規定されているであろうが、同時に、リンゴの実現・現れである。歴史書はより大きな出来事の一部である。だから、「歴史」は語られた出来事と同時にそれについての叙述を意味しうるのである。さらに言えば、言語はその言語を話す人びとが話題にしうるすべてのもの、つまり、人々が生きる世界の一部である。
 もし言語がそれが表す事柄の一部であるとすれば、事柄と言語が一義的で必然的な関係に固定されて、同じ事態や事物を別の言葉で表現することは不可能になる、と言われるかも知れない。だが、存在を客観的な存在者に還元してしまうから、不可能と感じられるのである。同じ事柄が異なって表現されるのは、とりもなおさず、同じ事態や事物が異なって現れるということである。表れは同時に現れなのである。ただし、どんな現れも対等というのではない。多くの場合、その時代やその社会に支配的な表現方法や規範的な文書が存在し、これが存在そのものの表現と見なされ、これが基準となって、他の表現はこの基準からのずれとして「間違い」と判断される。だから、「現実と違ったことを言えるから」という理由で、言語を存在から切り離してはならない。
 世界観説は「異なる言語を話す民族は異なる世界観を持つ」と主張するが、しかし、存在説によれば、世界観だけでなく世界自体も部分的に異なるのである。世界そのものは同じであるが、それに対する見方がさまざまなのではない。だから、外国語の学習は母国語が開いた馴染みの世界を、その外国語が開く新しい世界に融合する効果を持つ。世界観説は基本的に正しいが、しかし、認識を存在から、世界観を世界から分離してしまっている点で賛成できない。
 言語は存在の全体ではなくその一部である。言語は存在を汲み尽くさない。存在はそれ自身分節を有するが、言語はそれを基礎にして、さらに存在の分節を発展させ、世界を出現させる(おそらく、人間の身体もまた、この分節化に寄与している)。人間はこの言語によって開かれた世界の中に住む。この言語の中で存在を認識し存在について考える。だから、言語的分節が始まる直前の生の自然、存在そのもの、を捉えることはできない。
 会食中にトイレの話をしてはいけない。それは食事に汚物をまき散らすのと同じことだ。