ガーダマー追悼


巻田悦郎

(2001.7.10 巻田撮影)  ドイツの哲学者ハンス=ゲオルク・ガーダマーが三月一三日、ハイデルベルクで死んだ。百二歳であった。
 昨年七月初旬、ガーダマー自身も出席したガーダマー学会のあと、私はツィーゲルハウゼンのご自宅にお伺いし、彼へのハイデガーの影響の仕方について尋ねた。ガーダマーは私の質問の前提が誤っているとして、ハイデガーはゴットズッハー(神を求める者)であるという、ご自身のハイデガー論を展開された。その数ヶ月前に自宅の昇降機で転倒して頭を打ってから物忘れがひどいとおっしゃっていたが、ハイデガーについて語るガーダマーには、精神的な衰えはほとんど感じさなかった。
 ガーダマーの自宅には、十年ほど前にもお伺いしたことがある。ブクセンアッカーハング五三番。ここにたどり着くために、バス停から急な坂を登らなければならないが、それだけに居間からの眺めは大したものである。住居は大きいが、彼の書斎は意外に狭かった。彼はギムナジウム時代の成績表や、ヒトラーの署名の入ったライプツッヒ大学の教授就任証などを私に見せてくれた。ハーケンクロイツのあった部分が円くはぎ取られていた。
 ガーダマーは一九〇〇年二月十一日にマールブルクで、薬物学者ヨハネス・ガーダマーを父として生まれた。少年時代にはブレスラウで過ごした。父のところには、日本人留学生がおり、正月には自宅に来て日本の歌を歌うなどしたという。ギュムナジウム卒業後、ブレスラウ大学やマールブルク大学などで、哲学や美学史などを学ぶ。三木清に個人教授もしている。しかし、決定的な出来事は、やはり、ハイデガーとの出会いであった。この出会いによって、ガーダマーは新カント派の「概念遊戯」から離れ、事柄そのものへ向かう眼差しを獲得した。
 ハイデガーの許で、二九年にハイデガーの影響の強い教授資格論文を提出して、マールブルクで私講師として教え始めるが、戦争や健康問題などで、ガーダマーは三〇年代・四〇年代は著作らしい著作も発表しなかった。しかし、戦後に、一時期離れていたハイデガーの影響下に再び入り、歴史主義を超える解釈学理論を作ることを決意した。彼が研究してきた古代哲学やハイデガーの存在論は、歴史主義の問題に悩まされていた解釈学にとって、決定的な意味を持つものと、彼には思われたのである。六〇年に公刊した主著『真理と方法』によれば、テクストを理解するとは、自らの歴史性を脱ぎ捨てて著者のところに赴くことではなく、現代にまで伝承され解釈されてきたテクストの意味に参与し、現代に適用することであるという。
 ハーバーマスとの論争で、ハイデガー大学を退官した六〇年代末からガダマーの名は世界中に知れわたり、外国に講演や講義で頻繁に呼ばれるようになった。ガーダマーに関する著述や彼から示唆を得た研究が増え、その影響は、アメリカやイタリア、スペインなど多くの国に、そして、神学や文学などさまざまな分野に及んだ。第一次世界大戦前に教育を受けたガーダマーの解釈学は、この過程で、ヨーロッパ的な人文科学の理論という狭さから解放されて、ますます言語論、一般経験論の様相を示すようになった。
 ガーダマーは来日したことは一度もなかったが、日本では、七〇年代中葉から、彼の解釈学が轡田収や麻生建らによって紹介され、その後は、ほそぼそと研究されている。いくつかの著作は日本語に翻訳されているが、主著『真理と方法』の翻訳は未完結のままになっている。このような状況では、彼の死去を機会に彼のテクストの事柄に改めて触れ、日本でよく聞かれる「伝統主義者・ヨーロッパ主義者ガーダマー」という先入見の瓦解を経験されることが、強く勧められる。(2002.3.15)