引用

GG: H.-G. Gadamer, Gedicht und Gesprach, Insel, 1990.
GW: H.-G. Gadamer, Gesammelte Werke, Tübingen, Mohr, 1985ff.
[ ] : H.-G. Gadamer, Wahrheit und Methode, Tübingen, Mohr, 1. Aufl, 1960.



哲学的解釈学


真理の回復
「以下の研究(※『真理と方法』)は、近代科学の内部で、科学的方法論の普遍性要求に対して主張されたこの抵抗を引き継ぐものである。その関心は、科学的方法が制御できる範囲を超え出た真理経験を、それが出会われるすべての領域で探し求め、それ固有の正当性を問うことである。」 GW1: 1 [XIII]


方法論ではない
「ここ(※『真理と方法』)で展開される解釈学は、それゆえ、精神科学の方法論ではなく、精神科学がその方法論的な自己意識を超えて真実、何であるのか、精神科学をわれわれの世界経験の全体と結びつけているのは何なのか、について了解し合おうという試みである。」 GW1: 3 [XV] Vgl. GW2: 438


決意(『真理と方法』出版の約10年前)
「多くの分散した、実践的な試みや理論的な試みから、最終的にはいつか一つの解釈学理論を発展させることができればと思っている。その理論はディルタイや歴史主義を超えて、解釈学的問題を歴史哲学的な問題設定というより包括的な連関の中に押し入れるものとなろう。」
,Die Philosophie in den letzten dreissig Jahren', in: Ruperto-Carola, Nr. 5 (Dezember, 1951), S. 33­34; S. 34.


ハイデガーと哲学的解釈学の企て
「現存在の構造が被投的投企であること、現存在はそれ固有の存在遂行において了解であることは、精神科学で起きている了解の過程にも当てはまらなければならない。慣習や伝承といった具体的な制約や、これに対応する、自身の将来の諸可能性が、了解そのものに働いていることによって、了解の一般的構造は歴史的了解において具体化される。」 GW1: 268 [249]. Vgl. GW1: 270 [250].
「私の哲学的解釈学はまさに、後期ハイデガーの問いの方向を保持し、新しい仕方でそれを近づきやすいものにしようとするものであった。」 GW2: 10

 

了解

生の表出ではなく事柄の真理
「テクストは生の表現としてではなく、それが述べている事柄において理解されることを欲する。」 GW1: 396 [370]


参与としての了解
「了解の奇跡は魂と魂の間の神秘的な交感ではなく、共通の意味への参与である。」 GW1: 297 [276]
「読みつつ了解することは、過ぎ去ったものを取り戻すことではなく、現前する意味に参与することである。」 GW1: 396 [369]
「了解はそれ自身、主観性の行為としてではなく、過去と現在がたえず互いに他に媒介されている伝承の出来事Überlieferungsgeschehen への参入として考えられるべきである。」GW1: 295 [274f.]


地平融合
「獲得しなければならないとされる歴史的地平(※過去の地平)が存在しないように、現在の地平そのものというのも存在しない。むしろ、了解はつねに、それ自身で存在していると誤って思われている二つの地平の融合の過程である。」 GW1: 311 [289]
「(※現在の地平と過去の地平という、)互いに区別される二つの地平が存在しないのだとしたら、なぜわれわれは地平融合について語り、その境界を伝承の深みへと押し戻してゆく単一の地平に形成について語らないのであろうか。このように問うことは、すなわち、了解が学的課題となるような状況の特殊性を告白すること、そしてまた、この状況を解釈学的状況として仕上げることが重要だということ、である。歴史的意識によって遂行されるどんな、伝承との出会いもそれ自身、テクストと現在との緊張を経験する。解釈学的な課題はこの緊張を素朴な同一化によって覆い隠すのではなく、それを意識的に展開することにある。このような理由で、現在の地平から区別される歴史的地平の想定が、解釈学的振舞いには必然的に属しているのである。」 GW1: 311 [290]


別様の理解
およそ了解するときは、別様に了解するのだ、と言うだけで十分である。」 GW1: 302 [280]
「テキストはその都度別様に理解されたはじめて、理解される。」 GW1: 314 [292]


了解の奇跡
「テキストの了解可能性を、作品の作者と解釈者を結びつける「同質性 Kongenialität」の前提に基づかせるなら、それは邪道である・・・了解の奇跡はむしろ、伝承の中で真に意義があり根源的に有意味なものを認識するには、どんな同質性も必要ない、というところにある。われわれはむしろ、テキストの卓越した語りかけに身を開き、テキストがわれわれに語りかける意義に、了解しつつ応ずることができるのである。」 GW1: 316 [294]. Vgl. GW1: 297 [276]


了解の基準 Vgl. WM: 133f., GG: 180
「確かに、その都度の了解にとって、了解が測られる基準が、そしてそのかぎりで、ある可能な完成が存在する。唯一基準を与え、言葉にもたらされるのは、伝承物の内容そのものなのである。」 GW1: 476 [448]
「芸術作品がそれ自身においては完成しえないものであるなら、作品の受容と了解が適切であったかどうかは、何によって測られるのか。芸術作品の形成過程が偶然的・恣意的に中断されたのなら、了解が従うべきものがそこに含まれているということはありえない。ここから、作品の受容者がそこにあるものから何を自分のために作るかは、その享受者に任されている、ということになる。そうなると、形成物を了解するある仕方は別の仕方よりも同程度に正当なのである。了解が適切であるかどうかを決める基準はどこにもない。・・・これは支持できない解釈学的ニヒリズムであるように、私には思われる。」 GW1: 100 [90]
「伝承の歴史的生の本質は、つねにあらたな同化と解釈に依存することにある。正しい解釈それ自体というようなものがあるとしたら、それは伝承の本質を見損なった、無思慮な理想であろう。」 GW1: 401 [375]


解釈の消失
「解釈者の言葉はそれが意味していることを呼び起こしたら、消え去らなければならない。……解釈が完成した目印は、読者が解釈者として消え去り、解釈された事柄がそれだけでそこにあることである。」 GG: 128. Vgl. GW1: 402, 404.


歴史学研究
「近代歴史学研究は単に探究なのではなく、それ自身伝承の媒介である。」 GW1: 289 [268]


適用 Vgl. GW1: 407 [381], 375 [401].
「解釈者はおよそ了解するときはつねに、テクストをこの(※彼がその中にいる解釈学的)状況に関係づけなければならない。」 GW1: 329 [307]
「了解には、つねに、了解されるべきテクストを解釈者の現在の状況に適用することのような何かが起きている。」 GW1: 313 [291]


了解と解釈 Vgl. GW1: 392, 399, 401 [373], 402 [375], 403, 475; GW3: 207
「了解はつねに解釈であり、解釈はそれゆえ、了解の顕現的な形式である。」 GW1: 313 [291]



伝承・歴史


帰属性と自己了解
「実際には、歴史がれわれわに属しているのではなく、われわれが歴史に属しているのである。われわれは自己反省において自らを理解するずっと以前に、われわれがその中で生きている家族や社会、国家の中で、あたりまえの仕方で自己を了解している。主観性という焦点はゆがんだ鏡である。個人の自己反省は歴史的生という閉じた電気回路にまたたく火花にすぎない。」 GW1: 281 [261]


時代の隔たり
「時代の隔たりは、口を開けている深淵ではなく、由来と伝統の連続性によって満たされており、この連続性の光に照らされて、伝承は自らを示す。」 GW1: 302 [281]
「単に、つねに新しい誤りの原因が排除され、あらゆる曇り・濁りが濾過されて真の意味が現れるというだけではなく、予期しなかった意味の関係をあらわにする、了解のつねに新しい源泉が時代の隔たりに由来するのである。」 GW1: 303


テキストの同一性と別様性
「テキストは、絶えず別様に了解されなければならないとしても、同一のテキストである、この同じテキストがその都度別様に我々の前に己れを提示するのである。」 GW1: 401


共通性 Vgl. GW1: 384
「われわれのテキスト理解を導いている、意味の予期は、主観性の行為ではなく、われわれを伝承物に結びつけている共通性によって規定されている。この共通性は、しかし、われわれの伝承との関係の中でたえず形成され続けている。共通性は決してわれわれがいつもすでにその下にいる前提ではない。了解し伝承の出来事に参与し、それによってさらにこの出来事を規定するかぎりにおいて、われわれがその共通性を形成するのである。」 GW1: 298 []


先入見  
だから、個人の前了解はその人の判断というよりはむしろ、彼の存在の歴史的現実であると言った方が、ずっと適切である。」 GW1: 281 [261]
「実際、われわれの実存の歴史性には、前了解 Vorurteile は(文字通りの意味で Vor-Urteile)われわれの経験能力をあらかじめ方向づけている、ということが属している。前了解はわれわれの世界開放性のもつ先入見 Voreingenommenheiten であり、この先入見がまさに、われわれが何かを経験する、つまり、われわれに出会われる何かが何かを語る、ということの条件になっている。これは、われわれが前判断の壁によって囲まれていて、「ここに新しいものは何もない」と書いてある通行証を示せる者だけに、狭い門の通過を許す、ということでははけっしてない。われわれの好奇心に新しいものを約束する客人こそは、われわれから歓迎される。しかし、どこからわれわれは、その客人を、何か新しいことをわれわれに語る者として認識するのであろうか。その新しいものを聞くわれわれの期待や心構えもまた、われわれの心を占めている eingenommen 古いものから必然的に規定されているのではないのか。」 GW2: 224f.


影響史
「事柄にふさわしい解釈学があるとすれば、それは了解そのものに歴史の現実が働いていることを示さなければならない。私はそれによって要請されているものを、「影響史」と名づける。……われわれが、われわれの解釈学的状況全般を規定している歴史の隔たりから、ある歴史的現象を了解しようとするとき、われわれはいつもすでに、影響史の作用を受けている。影響史は何が問うに値するものとして、探究の対象として現れるのかをあらかじめ規定する。」 GW1: 305 [283f.]


影響史的意識
「影響史的意識がある作品の影響史の、作品が後世に残す痕跡の研究とは別のものであること、むしろ、それは作品そのものを意識することであり、そのかぎりで、(※後世の意識に)影響を行使すること、このことをわれわれは先にすでに主張した。」 GW1: 346f. [324]
「影響史的意識は、……「意識というよりは存在」なのである。」 GW2: 11. Vgl. GW2: 495f.
「影響史的意識概念の二義性は次のところにある。一方で、歴史の経緯に中で働きかけられ、歴史によって規定されている意識が、他方では、この働きかけ規定されていることそのものの意識、がこの概念によって意味されている。」 GW2: 444


対話とテクスト解釈 Vgl. GW2: 131
「われわれが示した問いと答えの弁証法は、了解を対話のような相互関係として現せさせる。たしかにテクストは汝のようには、われわれに語らない。われわれ了解する者は、テクストをわれわれ自身の方からはじめて、語らせることができる。しかし、そのように了解によって語らせる行為は、われわれ自身から発する恣意的な開始ではなく、それ自身、問いとして、テクストに現前している答えに関係づけられている、ということが示された。答えがテクストに現前しているというのは、それ自身すでに、問う者が伝承から語りかけられているということを前提としている。」 GW1: 383 [359]
「たしかに、これはテクストに対する解釈学的状況が、対話者たちのあいたの状況とまったく同じだということではない。テクストは実際、了解されるべき、「持続的に固定された生の表出」なのであり、これは、対話者の一方(解釈者)によってのみ、解釈学的対話のもう一人の相手(テクスト)は発言する、ということを意味する。しかしながら、テクストが了解へと戻されることによって、テクストがそれについて語っている事柄それ自身が、語るようになる。対話者たち(ここでは、テクストと解釈者)を互いに結びつけているのは、共通の事柄であるというのは、本物の対話の場合と同様である。」 GW1: 391 [365]


帰属性 Vgl. GW1: 462ff. GW2: 142
「われわれはむしろ、つねに諸伝承の中にいる。」 GW1: 286 [266]
「解釈者は彼が理解するテクストに属している。」 GW1: 345 [323]



言語

対話と言語 Vgl. GG: 168; GW1: 450 [422]
「言語つねに、対話の中にある。言語はそれ自身、ある発言が他の発言を呼び、われわれが互いに用いる言葉、われわれが互いのために見いだす言葉が存分に発揮される、行ったり来たりの言葉の運動の中でこそ、遂行されるのであり、その中でこそ真に充実される。」 GW2: 144


言語という媒項
「言語は対話者たちの意思疎通、事柄についての合意がその中で遂行される媒項Mitteである。」 GW1: 387 [361]


存在と言語
「了解しうる存在は言語である。」 GW1: 478 [450] Vgl. GW2: 242
「「了解しうる存在は言語である」という文は……存在に対する了解するものの完全な支配を意味しない。反対に、存在が経験されるのは、何かがわれわれわによって制作されそのかぎりで理解されるころではなく、生起したものがたんに理解されうるところである。」 GW2: 446


言語と有限性
「言語は有限性の痕跡である。」 GW1: 461 [433] Vgl. GW2: 150

 

芸術

遊戯
「遊戯の真の主体は……遊戯者ではなく遊戯そのものである。遊戯は、遊戯者を呪縛するもの、巻き込み関わらせるものである。」 GW1: 112 [102] Vgl. GW2: 128ff.


遊戯と構造
「遊戯 Spiel は構造 Gebilde である。このテーゼが意味しているのは、次のことである。演じられることに依存しているにもかかわらず、遊戯はこの遊戯として繰り返し表現されその意味において理解される有意義な全体である。構造はしかし、遊戯である。というのも、構造はその理念的な統一性にもかかわらず、そのつど演じられることのなかに、その十全な存在を獲得するからである。」 GW1: 122 [111]


作品と上演
「むしろ、上演(演奏)の中に、上演(演奏)の中にこそ、──これは音楽においてもっとも明白になる──作品そのものが出会われる。儀礼の中でこそ神的なものが出会われるように。」 GW1: 121 [111]
「詩や音楽の表現 Darstellung ないしは演奏は本質的なものであり、偶然的なものではない。表現と演奏においてこそ、芸術作品そのものであるものが、それらによって表現されるものの現前が、完成する。」 GW1: 139 [127]

 

詩の中の「私」
「詩の中の「私」は、通常考えられているより、詩人の自我である場合はずっと少なく、ほとんど常に、誰の自我でもありうる普遍的な自我である。 」 GW9: 241 [GG: 57]. Vgl. GG: 130.



ハイデガー

被投性?
「ハイデガーが当時、この小論(「近年ドイツ哲学における歴史の問題」四三年)を知って読んだとき、うなずいて賛意を表したが、しかしすぐにそれに対して、「それで、被投性はどうなっているのか」と私に尋ねた。しかしながら、私は他者という特別な現象を念頭に置いていたのであり、それに従って、われわれが世界の中で方位をとる言語性を問答に基礎づけようとしていた。これによって、キルケゴールやゴガルテン、ヘッカー、エープナー、ローゼンツヴァイク、ブーバー、V・v・ヴァイツゼッカーの刺激で、最初から私を惹きつけていた問題圏が開かれた。」GW2: 9f. Vgl. GW10: 198.


転回
「ハイデガーが「転回」と呼ぶものは、超越論的な存在忘却を超越論的な反省によって克服することはできないということの承認にすぎない。「存在の出来事」、「明るみ」としての「現」など、後期の概念は、すでに、『存在と時間』の最初の端緒のなかに、帰結として隠れていたのである。」 GW2: 125


古代ギリシア哲学 Vgl. GW2: 12
「ハイデガーによる存在の時間的解釈の地平では、古典形而上学はその総体が、眼前存在の存在論であり、近代科学はそれとは気づかずにその末裔である。しかし、ギリシアの「テオリア」それ自体には、間違いなく、それとは別の何かがある。テオリアは、眼前存在と言うよりはむしろ、依然として「事物」の尊厳を保っているような事柄そのものを捉えるのである。」 GW1: 459 [431f.]

 


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巻田悦郎