東京理科大学 経営学部 研究室 巻田研 巻田悦郎 その他


外国語の学習・教授



 大学での外国語教育
 大学で外国語を教えることに携わっている者として、外国語をどう学ぶか、大学で外国語をどう教えるかという問題をしばしば考えさせられる。今のところ次に記したように考えるにいたっている。これは、最近私がいくつか同傾向の外国語学習法・教授法の書物を読んで影響された結果であるが、同時に、私自身がどのように外国語を教育され、自ら学びんで来たかということに対する反省にも基づいている。

 翻訳ではなく理解
 これまでの日本の外国語教育は、私自身の経験でも、訳読、つまり、外国語のテキストを日本語に訳すという作業に中心があった。学生(生徒)が訳して、次に、教師がそれを訂正し(必要があれば)模範訳を提示する、ということの繰り返しであった。
 このような訳読偏重の傾向の背景には日本の文化的・地理的な位置がある。日本人は近代化が始まる以前には中国から、以降は西欧から文明や科学技術を摂取し受容してきた。昔は外国に行くことは経済的にも技術的にも難しく、生きた外国語に接する機会は少なかった。当然のごとく、文献を輸入してそれを読解し翻訳するというのが、日本人の外国語との典型的な接し方になり、英語や中国語を漢文古典のように読む習慣が生じた。これが学校でも教えられ、フランスの高校生が日本の高校の英語の授業に参加して「日本では英語をラテン語のように読んでいる」と驚くということにもなる。また、外国語ができない多くの日本人のために、文学や技術文献が日本語に翻訳された。
 さらに、(これは最近変わってきたのだが)語学教師が多くの場合、大学で文学を専攻した者であり、文学では文字で書かれた文章の一文一文の構造と様式を把握して、その含蓄を味わうということが重きがあったが、訳読は朗読とともに、そのための優れた方法であった。また、翻訳は注解とともに、読解の成果を発表するための手段であった。
 今ではすっかり変わってきたが、時代のせいで、英語が話せない英語の教師がたくさんいた。話せないから、訳読や文法しか教えられない。それで教わった学生は訳読しかできないし、訳読が外国語の学習だと思いこんでしまう。「ペラペラ話す人は軽薄である」という決まり文句は、自分の偏った能力を正当化するための言い訳として用いられた。しかし、外国語の教師である以上、読むだけでなく、書く、話す、聴くを合わせた総合的な能力を身につけていなければならない。たしかに、大学での外国語教育は語学学校での教育とは別である。大学で外国語を教える者は、外国語の総合的な能力に加えて、体系的な外国語教育の方法論やその歴史、その外国語が話されている国の文化についての正確な知識を持ち、文学、文法・語法ないし外国語教授理論などの分野で専門的な研究をしなければならない。
 たしかに、われわれが日常話している内容はくだらないことである。これはドイツ語でも同じで、ドイツ人がいつもゲーテやカントについて論議しているわけではない。会話は人間関係の潤滑油であるから、内容が深かったり深刻であったりする必要はない。しかし、話すことにもさまざまなレベルがある。さしさわりのない挨拶程度の会話から、賞賛・罵倒・慰め、ビジネスや契約関係の交渉、講演、学会における討論までも含んでいる。訳読中心の授業だけを受けてきた日本人の学生は、ゲーテやカントを読むことができても、口頭の交渉や質疑応答においてひどい弱みを見せることになる。話し言葉を「軽薄なことをペラペラ話す」という次元に限定してしまうどんな理由はない。
 翻訳についても、その価値を否定しようとは思わない。翻訳はたいへん労力と日本語の能力を要求するし、文化的創造力の主要な要因でもある。ある重要な著作が翻訳され紹介されて、それが刺激となってその国の思想や思潮に新しいものが生み出されることは、しばしばある。しかし、生きた外国語を学ぶ手段としては、日本語に移して考えてしまう癖をつけさせてしまう点で、適切な方法ではない。この癖がついてしまうと、日本語に訳してからでないと理解できないようになり、外国語の文章の読解がとても遅くなる。外国語の達人であったシュリーマンも「まちがっても翻訳などしないで」とさえ述べている。外国語はできるだけ外国語として(その外国語の語順で)理解しなければならない。もちろん、学生がある文の意味を正しく理解しているかどうかを知るには、翻訳は手っ取り早い方法である。しかし、翻訳家になるのでもなければ、日本語らしい翻訳文を練り上げることばかりに精を出す必要はない。

 読解の訓練が不必要であるということではなく、それは外国語学習の全体の一部であるということである。翻訳することはおそらく、読むこととは別のことである。そして、読み方にも様々なものがある。我々日本人が日本語の雑誌や新聞の記事を読む際に、たいていは、読み流して大体の意味をとっており、翻訳したり文法的に分析しているのではない。同様にして、外国語の場合も、誤解を恐れずに話の流れを全体的に把握するような直観的な読解能力を、多読によって身につけることを、まず目指さなければならない。次に必要なのが文法的構造の正確な理解や単語の微妙なニュアンスや文化的背景の理解に基づくより深い理解、つまり、精読である。

 共通の単語が少ない外国語の場合、初学者は知らないだらけの単語の列に直面して、辞書と格闘するということになる。ドイツ人が英語を学ぶのとは違い、残念ながら、日本人は辞書なしには外国語は学べない。これはどうにもならない事実である。しかし、すべての単語の意味がわかるまで丁寧に辞書を引くような潔癖主義はやめた方がよい。80パーセントの単語がわかれば、残りの単語の意味は推測するということが、語学では重要である。日本語でも話相手が、よく知らない言葉を用いた場合、文脈でその意味を判断している。どうにも分からなくて、しかも、それが理解できないと全体も理解できないような重要な単語であれば、話し相手に問うことになるが。

 文字よりも音、目よりも耳
 日本人が近代化のために、距離的に離れた西欧文化の成果を一方的に受け入れてきたために、発信よりも受容、書くよりも読むことが中心になった。以前は、文献を読み研究するというのが一般的であったから、受容と言っても、聴くよりも読むことに経験が蓄積され、それが教授されてきた。しかし、われわれの言語活動のうち、少なくとも半分以上は対話や議論、講話といった音声の言語なのであるから、そのような読解・翻訳だけの外国語教育は、明らかに、偏った外国語学習である。
 訳読ばかりやらされるせいであろうか、あるいは、漢字が表意文字であるせいであろうか、日本人は外国語を学ぶときにも、文字に頼ろうとし、文字が見えないときは、頭に文字を描こうとする。外国人教師が口頭で述べたことはまったく理解できないが、黒板に書いてくれると理解できた、という経験を私自身学生としてした。視覚的に言語を学ぶ習性ができあがってしまうと、それが生きた外国語を学ぶときに大きな障害となる。聞いた単語、言おうとしている単語を一つ一つ視覚的にイメージ化しているようだと、スムーズな対話や理解はできない。だから、語学の授業では音声やリズムを重視されなければならない。

 理論と実践の同伴
 語学は学問というより実践であり生活様式であるから、「習うより慣れよ」の諺がそのまま当てはまる。あまり考えすぎると、語学は身に付かない。だから、自分の歩き方を説明しようとしたら歩けなくなってしまったヤスデと似て、ドイツ語学の専攻者はかえってドイツ語をうまく話せないと皮肉られる。その意味で「語学を学ぶときは赤ん坊のようになれ」というのはある程度当たっている。しかし、他方で、すでに一定の知的能力を持った大学生やそれ以上の人たちが外国語を学ぶときは、赤ん坊になりきって、子供が母国語を学ぶように一から経験し直すということは不経済であり不可能である。だから、実践に加えて理論、つまり、文法が役立つし、必要になってくる。
 これまでの大学外国語教育は、訳読とともに文法に中心があった。言語学を専攻するのであれば別であるが、しかし、たいていの人にとって文法は手段であって、自己目的的なものではない。水泳法は水泳のためにあるのであり、それ自身が目的ではないのと似ている。理論は理論として学ぶのではなく、習う項目ごとに実践へと適用しなければならない。たしかに、これまでも、文法は読解のために適用される規則であったが、読解ばかりが適用の領域ではない。
 実践とはさしあたり、文法の練習問題をやることである。だが、文法を習得するための練習問題が、文法を乗り越えなければならない。しかし、クラスで教師や学生同志とやりとりの中で、文を発信し、それに受け答えることにある。文型を少しずつ換えながら繰り返し練習する。練習問題や作文、対話練習などを行い、より実践的な場で、理論を適用して体得する。繰り返しを多くするには、少人数のクラスで、教師は学生に何度も当てて発表させなければならない。50人もいるようなクラスでは、このようなことはけっしてできない。
 この際、できるだけ、学生が自分自身の体験や経歴を表現できるような仕方で、口頭練習がなされると理想的である。ドイツ語で言えば、現在形を学んだら自己の出身や専攻を、再帰表現を学んだら日常の生活習慣・パターンを表現し、現在完了形を学んだら週末に起きた出来事や体験を語るとよい。自らの体験的事実でない用意されたフレーズを練習するだけでは、外国語のフレーズは学習者にとって疎遠なままである。単に練習するのではなく、同時に自分自身の経歴や体験を発表できるならば、フレーズは意味的に充実したものとなり、学習者にとって外国語は自己表現の手段と化する。このような発信を重視する立場からすれば、独和辞典だけでなく和独辞典も学生に買わせるべきである。

 最も実践的なのは覚えた言い回しや文法を、生活の中で実際に使ってみることである。生活の中で使って初めて、言語は真に体得される。日本で暮らしているかぎり、特別な立場にある人を除いて、このような機会はほとんどない。だから、外国語で話し聴くことができるうようになるには、その言語が話されている国に行って学ぶのが一番良い。日本だと、日常生活では外国語を話す機会は皆無に近い。確かに、日本でも語学学校や大学で会話を学ぶことはできる。話し好きで言語感性が高く努力家であれば、話せるようになるであろう。しかし、多くの場合、高い費用を払って遠い語学学校に1週間に1度通っても、あまり効果が挙がらない。このようなわけで、大学生に対しては、大学在学中か卒業直後の留学が勧められる。

 文法中心的なテキストや授業のもうひとつの欠点は、理論が自己目的化しやすいことに加えて、外国語語圏で生活する(日常の生活、学生生活、サークル活動)ために必要なことが学べないことである。ドイツ語の初等文法では接続法が一番最後に来るが、控えめの表現に用いる接続法二式は、日常では頻繁に用いられる。挨拶とか時刻の表現、提案や申し出の仕方などは、生活する上でとても重要で、しばしば用いられるにもかかわず、文法体系にうまく組み込めない、接続法が使用されているなどの理由で、後回しにされる。文法上重要な位置をしていることと、外国語の使用において重要なこととは必ずしも一致しないのである。文法では規則通りのものは書かれず、規則の例外が小さな文字で欄外などに書かれる。しかし、規則通りでも、実際の使用で学習者が間違いやすい項目は書かなければならない。





〈参考文献〉
澤田昭夫、『外国語の学び方』、(講談社学術文庫)、講談社、1984年
佐伯智義、『科学的な外国語学習法──日本人のための最も効率のよい学び方』、講談社、年(神経についての議論が科学的かどうか分からないが、著者の豊かな外国語学習経験に裏打ちされている)
鐵野善資、「Heinrich Schliemannの『自叙伝』に学ぶ──外国語学習の秘訣」(『基礎ドイツ語』、1994年12号)
松田まゆみ[他]、『発信型英語教育の実践──桜美林大学経済学部の挑戦』、三修社、年





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1998.11, 文責 巻田悦郎, (c) Etsuro Makita, E-Mail: @の前はmakita、後はms.kuki.tus.ac.jp