哲学の事柄

認識


事柄
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 認識についてのさまざまな説
 認識については、従来、認識は人間が最初から持っている真理の想起ないし反省であるとする想起説、客観的現実の反映・模写であるとする反映説、感覚データを秩序づける過程である構成説などの考え方があった。

 想起説(反省説)
 想起説はイデア界から現実界に降りて物質的な肉体に拘束された魂がイデアを思い出すことである、というプラトンの説で知られる。認識を理性が最初から持っている真理、それゆえ、理性にとってそうとしか考えられないこと(たとえば、幾何学の公理)、の反省と見なすデカルトやライプニッツの認識概念もここに属す。これらの哲学者によれば、認識とは、精神が精神に内在している真理を想起することである。それはちょうど、大理石を磨けば美しい斑紋が現れるようなものである。
 この説では、外界を経験を通して認識することは重要ではない。物質や錯覚に満ちた感覚が誤りの源泉と見なされる。
 だが、想起説は知のモデルを幾何学のような演繹科学にのみ求めて、帰納を方法とする経験科学を無視しており、一面的である。たとえば考古学などで顕著に起きているように、新しいことが発見されて、これまで正しいと思われていたことが塗り替えられてゆく時代に生きているわれわれは、想起説はとても理解しがたい。

 反映説
 反映説は人間精神を鏡のようなものと見なし、認識を現実に在るとおりに、この精神の鏡に客観的現実を映し出すことと考える。カメラがレンズを通して被写体をフィルムの上に投影する過程を思い浮かべると分かりやすい。目の前に、ある花瓶があれば、その形や色つや、質感にいたるまで正確に精神の中に再現して初めて、われわれはその花瓶を認識できたと言える。逆に、間違って、あるいは不完全にしか再現されなかった場合は、正しく認識できなかったのである。
 反映説にとって先入見はまったく否定的なものである。先入見は鏡の曇りないしは歪みのようなものであり、正確な反映を妨げる、つまり、正しい認識を妨げるので、排除しなければならない。
 この考えはわれわれの常識にもかなっており、素朴ではあるが、理解しやすい。同じく反映説であるが、反映の対象を現実の外面だけでなく、その構造や本質、法則にまで拡張するマルクス主義認識論もある。
 しかし、反映論は人間の認識活動をあまりに受動的に考えすぎている。街の喧噪(喧噪)を漠然と聞くのではなく、耳を澄ましてそこに、ある特定の音(子供の泣き声? 言い争いの声?)に焦点を絞ることがわれわれにはできる。人間の精神は外界からの情報を選択していることはないのか。また、反映説は視覚をモデルにしており、嗅覚や触覚では反映とは何かということ自体が理解しにくい。

 構成説
 ロックやカントの認識論を代表とする構成説は精神の受動性の点で、反映説とはまったく正反対である。構成説は現実をカオスと見なす。あるいは、現実そのものはカオスでないかも知れないが、われわれが現実について得る情報は、そのものとしてはカオスである。われわれは外界についての視覚や触覚などの感覚以外から知ることはできないが、これらの感覚データは痛みや熱さ、色などの強弱の信号から成り、このような生のデータは無数で雑多である。人間の精神はこのデータを選択し加工し集約して、そこから一定のまとまりある対象を構成する。生まれたばかり赤ん坊はこのような構成能力において劣るので、赤ん坊の現実は大人のものよりも曖昧模糊としている。
 しかし、現実が持っていると見なされている構造や秩序を、すべて人間精神の産物と見なそうとする点で、構成説は人間精神の能力を過大評価していないか。たとえば、ある動物を解剖してその体の構造を認識する場合、認識された構造はその動物の体に内在するもの(ないしは、それに由来するもの)ではないのか。

 生物としての人間
 認識を主観と客観の関係で説明する近代の認識論主義は、人間の精神を世界の外に想定している。だが、私の考えでは、人間の主観や認識活動もその身体とともに世界の中にあり、同様に世界の中にいる他の存在者(事物、生物、他の人間)と出会い交渉している。実際のところ、人間は地球上に生じた生物の一つにすぎず、近代哲学がその主観主義によって怪物にしてしまった認識は、本当は、生命が食物を発見し敵から身を守るといった、生命維持の機能から発展してきたものである。

 未知と既知の融合
 融合説とは、認識を既知と未知との融合、既知への未知への組み込みと見なす考えである。さしあたり私はこの融合説を支持したい。ところで、既知とは何か。人間は生物として、長い進化の過程で外界との交渉の積み重ねを、遺伝子や身体の機能・構造として獲得してきたし、また、社会的存在として、民族の習慣や世界観などを言語や教育を通じて身につけている。さらに、個人としても、個人の経験や身体的傾向、性格・性向によって、独特な概念群や思考様式、感じ方を持っている。これらの大部分は意識されない。意識されているのはほんの一部である。それが同化され習得されたときは意識されているが、時間が経って当たり前になれば意識されないようになる。
 認識とは、これら、生物学的・文化的・個人的な経験的アプリオリが、物理的・社会的現実、それから他人と出会い・衝突することによって変容し、新しい概念や枠組みが形成される過程である。認識と呼ばれるこの出会いにおいて、未知は既知に単に組み込まれるが、既知は未知を組み込むことによって、それ自身も変容され、分節され、あるいは、分節し直される。
 未知なるものの新しさがそれほどでもないときは、既知はさらに細かく分節され、精神はより細かくなめらかにその現実を対応できるようになる。たとえば、新しい機械の操作に慣れてくるような場合、あるいは、普段使い慣れているカバンに、以前にはなかった傷を発見するような場合。認識の深まりと通常見なされているのは、この過程である。これに対して、未知なるものの新しさが十分に大きいときは、既知のものはかなり深い部分から覆され、既知は分節し直される。たとえば、極端な例だが、毎日通勤していた会社の建物がある朝、ぽっかりと跡形もなくなっていたというような場合である。計り直して数値を訂正する場合が前者、尺度そのものを変更する場合が後者と言えば、分かりやすいであろうか。
 この融合説に対する批判として、経験的アプリオリが分節されたり訂正されたりする場合は、そのようなアプリオリがなければならないが、これまで見たことのないものを認識する場合や、赤ん坊のように経験も知識もほとんどない場合は、対応する既得の知識がないのだから、既知と未知との融合も起きないということならないかというものがある。しかし、これまで見たことのないものであっても、人間は既知の経験を利用して、最初は既得のカテゴリーに当てはめようとする。たとえば、キリスト教を初めて受け容れた日本人がキリスト教の神を天狗(てんぐ)と表現したように。赤ん坊についても同様である。赤ん坊の精神は白紙なのではない。赤ん坊はほとんど本能的に、手につかめそうなものをつかんで口に入れようとする。ほ乳瓶だと思って口にくわえたものが、硬くてセルロイドの味がするというだけで、甘くて温かい乳が味わえないということも経験する。

 存在論的記述
 この認識の過程を私の可能性存在論の立場から記述し直すと次のようになる。

 認識される存在者の実現としての認識
 認識は存在者と存在者の交渉の様式の一つである。ある存在者が別の存在者に働きかけるということは、働きかける存在者の可能性が、働きかけられる存在者に応じて実現することである。認識は認識される存在者の実現なのであり、そのかぎりで、認識されるものの一部である。「どんな主観性からも独立している物そのものがあって、それに対する主観的な見方がたくさんある」のではなく、そのような多くの見方は、それ自身、存在者の様々な可能性なのである。

 
 そのような可能性としてのさまざまな見方は、存在者の一部であるかぎりで、また、個人の見方は、個人が属す社会の共通の見方に制約されているかぎりで、恣意的なものではありえない。どんな可能性も他を完全に排除できるほど決定的ではないが、他方で、すべての可能性は対等ではない。通常は、多くの人がとる支配的な見方(現実解釈)が、支配的な可能性、実現した可能性、存在の恵みを得た可能性であり、この可能性のことを、この可能性の中にいるわれわれは、狭い意味で「現実」と呼ぶ。通常は、支配的な世界観は世界そのものなのである。認識の正しさの基準となっているのは、この現実である。

 転換
 しかし、実は、支配的な可能性はどれほど支配的であっても、存在そのものを汲み尽くせないし、どんな支配的な価値観の周縁にも、実現が阻まれた可能性が潜在的に存在する。だから、それまで支配的な可能性の支配が崩れ、新しい可能性が多くの人びとを支配する時期がいつかはやってくる。古い現実が効力を失い、新しい現実が現われ、新しい現実が現われる。地動説が正しいと考えているわれわれは、天動説が信じられている時代の人とは別の現実に生きている。認識が正しいかどうかを判断する基準は存在するが、この基準は文化や時代を超えた普遍的な基準であることは稀である。基準はその可能性が支配している時空と共同体においてのみ基準でありえる。

 認識する者の可能性としての認識
 認識されるものを中心に考えると、今述べたように、認識は認識される存在者の実現であるのだが、これを認識する人間(人間に限定する必要はないが、とりあえず限定すると)の側から記述できる。その場合、認識は、人間の他の精神的・身体的活動とともに、この認識する存在者の可能性の実現である。たとえば、子供が社会の仕組みを知ることにより、その子供は知的に成長する。