行政刷新会議事業仕分けに対する意見
基礎科学は芸術と同じく、文化の一部を形成するものでありますが、異なる点は現在では遥かに多額の費用を要する様になっていることです.直ちに利益に結びつかないことから民間で支えることは難しく、国家の支えがなくては発展はきわめて難しいことを理解する必要があります.もともと基礎科学は我々の知りたいという好奇心に根ざしたものでありますが、知ることによって初めて応用が可能になるという意味に於いて、基礎科学もその成果が十分国民に還元されるものです.このことは例えば、エイズがウイルスによって引き起こされる感染症であることが分かったことにより、その蔓延を防ぎ止めるいくつかの対策を講じることが出来る様になったことを挙げることが出来ます.また、がんや関節リウマチの発症機構が解き明かされることによって、いくつかの生物学製剤が開発され、治療が大きく前進したことなど、基礎研究の成果が我々に還元されている例は他にも数多く挙げることができます.ここで重要なことは病気の発症原因を探るという基礎科学と、予防・治療法を開発するという応用科学は途中で途切れることなく連続していることであり、基礎科学の発展なしに応用研究はあり得ないことであります.新たな知識の発見なしには応用研究は成り立たず、応用研究ばかりに重点を置くと科学の発展をいびつなものにし、50年後、100年後の発展の根を絶やしかねません.
さらに、我々は新しい知識を発見することの意義について、もう少し価値を与えるべきではないでしょうか.例えば、我々生物がどのようにして誕生し、なぜ死ぬかを知ることは、例え死ぬことを防ぐことが出来なかった場合でも、我々に平穏と満足を与えてくれます.また、エイズの例を先に挙げましたが、必ずしも有効なワクチンが開発できなくても、ウイルス感染症であるという発見だけでも、その予防に随分貢献できることがあります.そして、基礎科学は我々の生き方そのものにも深く関わってきます.進化論によって、どれだけ多くの人が迷信や宗教的な呪縛から解き放たれ自由を手に入れることが出来たかを考えるだけでも、このことはよくわかります.
現在、基礎科学、応用科学を問わず、科学のあらゆる分野は激しい競争にさらされております.基礎科学分野で言えば、最初に現象を発見し、そのメカニズムを解き明かすことが創造的な研究であり、新たな分野を開拓した研究としての評価を得ます.後追い研究では発表の機会すら与えられないことがあります.ここでの評価は、研究者仲間や国民の信用を得、研究費や人材を獲得しながら研究を発展させることができるかどうかにとって決定的に重要な意味を持ちます。したがって、新しい研究分野を発展させるためには、自ら新しい発見を行う必要があります.応用研究では競争の勝ち負けはさらにはっきりしており、特許を取れるかどうか、つまり一番に発明するかどうかが、製品開発に直結します.世界の中でこの激しい競争に打ち勝ち、確固たる地位を確保するためには、国の支援が不可欠であります.ことに、人のゲノム配列を明らかにする様な、ある程度方法論が決まっている分野では、成果の多少はほとんど投資の額に比例すると言っても過言ではありません.
現在、我々の研究室では遺伝子改変マウスを作製することにより、遺伝子の機能、病気発症に於ける役割を解析しておりますが、この分野でも世界的にきわめて激しい競争が繰り広げられております.なぜなら、多くの病気の発症に遺伝子機能の異常が関与していることが次第に明らかとなり、特定の遺伝子と病気との関連を明らかにすることによって、新しい治療法や治療薬を開発できる可能性があるからです.ご存知の様に遺伝子の数は限られており、わずか二万数千程度しかありません.少しでも早く機能を同定した者が特許を出願し、治療薬開発への権利を確保することになります.従って、現在、このような基礎科学に投資を怠ると、将来取り返しのつかない大きな損失を被ることになりかねません.
今回の事業仕分け作業を見ていますと、目前の財政難に眼を奪われるあまり、長期的展望を欠くことが残念で仕方ありません.再度我が国の将来を見据えて、科学技術予算に関する事業仕分けの結果を見直し、これまで以上に科学技術、中でも基礎科学振興のための予算を増額して頂きますことを強く要望致します.
(行政刷新会議事業仕分けに対する意見、2009年12月10日)