遺伝子改変マウス―“哺乳動物の分子生物学”を切り拓いた技術

 トランスジェニックマウス

 遺伝子改変マウスとは、人工的な操作により外来性の遺伝子を導入したり,あるいは、内在性の遺伝子に何らかの変異を導入したりしたマウスを指す.通常,外来性の遺伝子を持つマウスの事をトランスジェニック(Tg)マウスと言い,前核期胚の核に、細いガラスの針を使って遺伝子を注入する事により作製する.一方,特定の遺伝子の機能を失わせたマウスの事をノックアウト(KO)マウスと言い,遺伝子を改変した胚性幹細胞(ES細胞)を胚盤胞期胚に導入する事により作製する.現在では単純に遺伝子の機能を失わせるだけでなく,特定の変異を導入したり,特定の細胞・時期で、遺伝子機能を失わせたりする事ができる様になっている.

 遺伝子機能の解析に於いて,遺伝子変異体の果たす役割は大きい.60年代、大腸菌を実験材料とした分子遺伝学は、特定の遺伝子の突然変異体を分離し、その変異が宿主にどのような異常をもたらすかを解析する事により,発展した.哺乳動物の場合,ことに神経や免疫など高次の生命現象に係る遺伝子の機能解析は個体レベルでしか解析が行えないことが多く,変異動物の必要性はより高いとも言える.ところが,ほ乳動物は計画的に突然変異体を作る事が難しく,哺乳動物の分子生物学は遺伝子改変マウスの利用が一般的になる90年代初頭まで停滞した.遺伝子改変マウスの作製が自由に行える様になってから本格的なほ乳動物の分子生物学が始まることになる.現在、Cell誌の論文の1/3、Nature Medicine誌の2/3は遺伝子改変マウスを用いた研究である事からも、これらの技術が生物学の発展に如何に重要な役割を果たしているかが分かる.

 歴史的に胚を人為的に操作しようという試みは古くから行われており、19世紀末にはRouxやDrieschらが両性類の胚を使って2細胞期胚の各割球がそれぞれ発生能を持つ事を示した.また,1958年にはMcLarenによりマウスの体外培養胚を子宮に移植し産子を得る事に成功し、65年にはキメラマウスがMintzらによって初めて作製された.外来性の遺伝子を導入した個体を作製する試みは、Jaenish, Mintzらによって最初はSV40などのウイルスを使って行われたが、生殖系列への伝達は難しかった.80年になり,Gordonらは現在行われているマイクロインジェクション法を用いて初めてTgマウスを作る事に成功した.一見,乱暴とも思われるこの方法に踏み切れたのは,19世紀以来の胚操作の伝統があったからかもしれない.また、70年代前半から後半にかけて大きく発展した遺伝子操作技術の進歩が、導入遺伝子の作製を可能にした事も忘れてはならない.82年、Nature誌に載ったPalmiter や Brinster 達による成長因子遺伝子を導入したTgマウス(ジャイアントマウス)の報告(1)は研究者だけでなく,一般社会にも大きな衝撃を与えた.なぜなら,人工的に導入した外来遺伝子が生体で機能する事を初めて示したものであったからである.この方法を用いる事により,導入された遺伝子の機能を解析できるばかりでなく,産業的にも家畜をより望ましい形質に改良したり,あるいは家畜で有用な遺伝子産物を生産したりすることが考えられた.実際、その後多くの遺伝子の発癌や炎症との関わりがこの方法によって証明されているだけでなく、ポリオウイルスの受容体を導入したマウスを作製して本来感受性の無いマウスでワクチンの検定を行ったり,組織プラスミノーゲン活性化因子や血液凝固因子などの蛋白質を家畜の乳汁中に分泌させて医薬品化を目指したりするなど、応用面での進展も著しい.


KOマウス

 KOマウスの作製にはES細胞の開発と相同遺伝子組み換え法の開発が重要な役割を果たした.75年にPNASに載ったMintz とIllmensee の論文(2)は私にとって衝撃であった。試験管の中で長く培養していたテラトカルシノーマ細胞から正常な個体を再生することができ、しかも子孫も作ることができたというのだから、これは驚き以外の何者でもなかった。当時私は京大のウイルス研で、インターフェロン(IFN)を精製してその生物活性を調べていたのであるが,この魔法のような現象にすっかり魅せられてしまい、テラトカルシノーマ細胞の研究を始める事になる.ところが、彼らの報告した129系統のマウスの精巣に自然発生したテラトーマ由来の細胞は、多分化能を有するものの,その後長い間誰も正常な個体の作製に成功するものはいなかった.81年になってEvans, Kaufman, Martinらが正常な胚盤胞から直接多分化能をもつ細胞株の樹立に成功し,初めて培養未分化細胞(ES細胞)由来の個体を作製する事が可能になった(3).

 しかし,KOマウスの作製までにはさらに相同遺伝子組み換え技術の完成を待たなければならなかった.85年、Smithiesらは相同遺伝子組み換えによりβグロビン遺伝子領域に外来遺伝子を挿入できる事を示した.87年,CapecchiらはHprt遺伝子の一部にネオマイシン耐性遺伝子を組み込むことにより遺伝子機能を失わせたベクターを作製し,ES細胞内で相同遺伝子組み換えを起こさせてHprt欠損ES細胞を作製する事に初めて成功した(4).この方法がうまくいったのは単に外から遺伝子が導入された事だけではなく,標的としたHprtが失活すると6-チオグアニン耐性になる事をうまく利用した事であった.翌年にはターゲティングベクターにネオマイシン耐性遺伝子とヘルペスウイルスのチミジンキナーゼ(TK)遺伝子を組み込む事により,相同遺伝子組み換えを起こした細胞のみがG418およびガンシクロビル存在下で生存できる様なシステム(ポジティブ・ネガティブセレクション法)を開発し,一般的にどの遺伝子に対しても適用できる様になった.このようにして特定遺伝子を欠損させたES細胞から個体を作製する事により,多くの遺伝子の機能を個体レベルで解析できる様になったのである.この功績により,2007年度にMario Capecchi, Martin Evans, Oliver Smithiesの3人がノーベル医学・生理学賞を受賞した事は記憶に新しい.


IFN遺伝子導入Tgマウスの作製

 私がTgマウスの作製に取りかかったのは、82年にPalmiterらのジャイアントマウスが報告されて間もなくであった.当初はマイクロインジェクターも無く,また,どうしてやれば良いのかも分からなかったため,自分なりに考えてウイルスベクターで胚に遺伝子を導入しようと試みたが,うまくいかなかった.結局2年ほどして、丁度Markertのところに留学してマイクロインジェクションの技術を習得してこられた、阪大の医学部の山村研一先生(現熊本大学教授)のところに出かけて行き,打ち方を教えてもらった.夏の暑い日で、帰りにビールをごちそうになったのを覚えている.当時医科研では、現在総合研究棟が建っている場所にあった古い木造2階建ての建物の2階でマイクロインジェクションを行っていた.廊下を人が歩くと床が振動し、マイクロインジェクション用の針がブルブル震えるためにインジェクションをしばらく中断しなければならない様な環境であった.このような中で1日8時間以上も顕微鏡に向かった.85年には世界で初めてIFN遺伝子導入Tgマウスの作製に成功し、88年にEMBO Journalに報告することができた(5).

 振り返ってみると,Tgマウスを作る事を思い立ってから最初の発表まで、5年以上かかったことになる.最初,インジェクターも何も無い中でとりあえずウイルスベクターを使ってでもTgを作製しようとしたのは,この技術の重要性に対する確信の様なものがあったからである。結果的には多少遠回りした事になるが,新しい世界を拓くためには決して無駄ではなかったと考えている.研究を新しい分野に展開しようとするとき,そのために必要な新しい技術を習得したり,新しい技術を開発したりしなければならない事は当然である.気になることは、最近の若い人たちが、新しい技術に挑戦することに今ひとつ意欲的でないことである.単に技術を獲得、開発するためにそんなに長い時間をかけることは研究者がすべきことではない、そのうちどこかでやってくれるようになると考えているのであろうが、誰かがやってくれる様になってからでは、新たなパラダイムの開拓者にはなれない.iPS細胞を例外とすれば、我国で新しく開発した技術、研究手法はあまり多くなく、研究者の中に技術(者)を正当に評価しない傾向があるのではないかと危惧される.

 現在、遺伝子改変マウスは遺伝子の機能を解析するために無くてはならない手段となっている。ことに、疾病に関与する遺伝子の機能解析は、発症機構の理解や予防・治療法の開発にとって重要である。このため、現在世界各国で網羅的な遺伝子改変マウスの作製・解析プロジェクトが展開されており、これまでに全遺伝子の1/3のKOマウスが作製されたものと考えられる.言うまでもなく、遺伝子の数は有限であり、早晩全ての遺伝子のKOマウスが作製されるものと考えられる.これらのマウスがもたらす情報は重要で、きわめて貴重な研究資源であると同時に、知的所有権にも直結する.我国は今この分野に大きな投資をする必要があるのではないだろうか.


参考論文
1. Palmiter, R. D., Brinster, R. L., Hammer, R. E., Trumbauer, M. E., Rosenfeld, M. G., Birnberg, N. C., Evans, R. M. Dramatic growth of mice that develop from eggs microinjected with metallothionein-growth hormone fusion genes. Nature, 300, 611-615 (1982).
2. Mintz, B., and Illumensee, K. Normal genetically mosaic mice produced from malignant teratocarcinoma cells. Proc. Natl. Acad. Sci. USA, 72, 3585-3589 (1975).
3. Evans, M. J., and Kaufman, M. H. Establishment in culture of pluripotential cells from mouse embryos. Nature, 292, 154-156 (1981).
4. Thomas, K. R., and Capecchi, M. R. Site-directed mutagenesis by gene targeting in mouse embryo-derived stem cells. Cell, 51, 503-512 (1987).
5. Iwakura, Y., Asano, M., Nishimune, Y., and Kawade, Y. Male sterility of transgenic mice carrying exogenous mouse interferon-? gene under the control of the metallothionein enhancer-promoter. EMBO J., 7, 3757-3762 (1988).