網羅的遺伝子機能解析プロジェクト

 ゲノムプロジェクトのおかげで、多くの生物でゲノムの遺伝子配列が明らかとなった.言うまでもなく、ゲノム配列自体を眺めていても機能は見えてこないため、これからはこれらの遺伝子の機能、生体での役割を明らかにすることに大きなエネルギーが注がれることになると思われる.その背景には、純粋に科学的な興味の他に、創薬の標的となる様な遺伝子機能を同定すれば、特許としてその権利を確保できるということがある.このような目的の研究に欠かせないのが遺伝子欠損マウスである。特定の遺伝子の機能を失わせるとマウスにどのような異常が見られるかを解析することによって、その遺伝子の機能を明らかにしようとするもので、特に試験管内で解析することが難しい神経や免疫などの分野では唯一の研究手段と言っても良い.実際、このことは一昨年のCell誌の1/3、Nature Medicine誌の2/3は遺伝子欠損マウスを用いた研究で占められていることからも分かる.

 ところで、生体は多くの遺伝子の働きによって恒常性が保たれている一つのシステムであり、疾病は遺伝子の機能異常によって引き起こされる生体システムの異常と捉えることが出来る.従って、全ての遺伝子の機能、相互関係が分かれば、個体がどのようにして生まれ、成長し、死ぬのかを分子のレベルで理解できるばかりでなく、病気の中でどの遺伝子がどのような役割を果たしているかを知ることにより、病気を予測し、新たな治療法を開発することもできると考えられる.今から10年位前までは、多くの人は遺伝子は10万以上はあると考えていたが、ヒトゲノムプロジェクトによって高々2万数千しかないということがわかってきた.漠然といくつあるかわからない状態では全部の遺伝子の機能を調べようなどと考えるのは無謀であるが、2万数千しかないと分かれば、一つ一つしらみつぶしに調べても全部調べきれるという確信を持つことが出来る.このため、3年ほど前からアメリカ、カナダ、ヨーロッパなどで、最終的に600億円をかけて全ての遺伝子の機能を明らかにする、という大型プロジェクトが一斉にスタートしている.この背景には、その対象が2万数千しかないとなれば、早くしないと競争相手に遺伝子を利用する権利をとられてしまうという強迫観念もあるのであろう.我が国においてもこうしたプロジェクトを強力に進めなければ、将来サイエンスだけでなく、経済的にも大きな損失を被るのではないかという危機感を持たざるを得ない。このようなことで、我々は現在、他大学と連携して文科省にそのための予算を要求している.ただ、欧米の様に全ての遺伝子を網羅的に解析するのではなく、病気に関連した遺伝子に焦点を絞り、治療に結びつく様な深く掘り下げた解析を行うことを特徴としている.

 6月始めにヨーロッパの状況を見るために、イギリスのサンガー研究所とドイツのヘルムホルツ研究所を訪れた.サンガー研究所はロンドンから車で一時間程の、なだらかな丘陵が続く田園の中にある研究所で、20万mを超える敷地には池や川が流れていてとても美しいところである.1300人以上のスタッフを抱えており、ご存知の様にゲノムプロジェクトを中心的に押し進めた研究所であるが、今,所長のAllan Bradleyを中心にノックアウトマウスプロジェクトを進めている。シークエンスから機能解析に完全に舵を切っていることが分かる.充実した研究システムと巨大なマウス飼育施設には圧倒された.また、ヘルムホルツ研究所はミュンヘンにあり、ビールとホワイトアスパラガスがおいしいところである.この研究所でも大規模なKOマウスの作製と表現型解析が行われており、ロボットによる大量の遺伝子欠損ES細胞の培養が印象的であった.いずれの研究所でも1年で200系統の遺伝子欠損マウスの作製と解析が可能とのことである.

 ゲノムプロジェクトやiPS細胞をもちいた再生医療研究、あるいは我々が提案している遺伝子欠損マウス作製による遺伝子機能の解析の様に、最近世界中で同時に同じプロジェクトが立ち上げられることが多くなった.このような大型研究は、個人の能力というより、ある程度研究予算の多少によって世界の中での寄与の程度が決まってくることはやむを得ない.それにも係らず、現在、我が国の科学研究費が欧米に比べかなり見劣りしていることは、この国の将来を考えると憂慮すべき大きな問題である。政権が交代したことにより、大幅に科学技術予算が増えることを期待したい.それまでは、少ない予算の中から如何に良い結果を出すかに知恵を絞るしかないであろう.

(日本生物学研究所「日生研たより」巻頭言、2009年9月14日)