政府による大学教育への口出し(97.12.25)
(Copyrights reserved by Ichiro YAMATO. ここの意見は山登個人のものです。)
- 文部省の大学(教育?)審議会から最近「高等教育の一層の改善」なる答申が出
された。学生の多様化に伴う大学教育の大衆化と多様化を目指し、また自己点検だけで
なく第三者による点検や進級などを厳しくするといった方向など、各種の事柄が提案さ
れた。さらに、それに賛成する新聞報道が掲載されている。(97.12.23)
- これにも呆れてものが言えない状態である。(でも少し言います。)
例えば、本学(東京理科大学)では、シラバスではないが類似のもの、自己点検、
teaching assistant として大学院生にいくらか援助することなど、私が10年前にこちらに
移ってきた時には既に行われていた。また、進級が厳しいことは、本学創立の時からの伝統
であると聞く。(理科系のため、社会に対する責任としてそうならざるを得なかったと
思われる。)一方、今回の大学教育の改革の動きは、バブルの頃の国公立大の地盤沈下対策と
して行われた節がある。つまり、入試センター試験も含め文部省が私大を含めて全体を監督
し易くするために、昔の大蔵省と銀行などとの関係である護送船団方式と同様に、ある基準
(規制)に従わせて同じ枠組みに取り込もうとの動きと捉えられる。(規制緩和・大学の
自由裁量に任せるといいながら、実はそれ自身規制強化であることになっていないだろうか?)
- 偉い先生方が審議会に出ていろいろ考え、日本全体の大学のあり方を答申するという
図式こそ、旧態然たる規制強化ではなかろうか。勿論そんな審議会に出る先生方は、その方向に
賛成なのだから何かを提案するであろうし、反対の先生方は審議会の委員すら引き受けないであろう。
それが、官庁の開く審議会の目的だとも考えられる。しかし、できれば、審議会に出席の
偉い先生方から、「日本全体の大学のあり方を提案するなどといった、縛る方向の答申など止めて、
文部省はもはや国立など廃止して各大学独自に運営を任せ、各大学のやり方に口出しを
するな」と言った意見がいつになったら出されるだろうかと気を揉んでいる。各大学が、
自由競争の下、それぞれの工夫で教育・研究に取り組めば、もっともっと教育・研究が
活発になり、もっといろいろな特色ある教育環境が出現すること間違いなしである。特に
私大では、その死活に関わることなので、いいことならすぐにまねるはずであり、今のように
文部省が各種の規制を提案する必要など全くないのである。また、文部省の提案に従って
できてきた大学など、みんな同じようなもので何ら特色もなく面白味もないではないか。
そんな大学しかない日本など、若い世代からどんどん敬遠されてしまわないかと心配である。
教育界、文部省、ジャーナリストの方達のご意見を伺いたいと思う。そして、「改革だ、
改革だ」と騒いでいること自体が、それ自身規制なのであるといった反論も報道の中に
取り入れて欲しいものである。(勿論国立では、文部省がそのような改革案を提示しない
限り、物事は動かないであろう。だからこそ、今騒いでいるのかもしれないが、もはや
そんな時代は終わったのではないだろうか?日本全体の大学教育にとってはいい迷惑だし、
単に国立を廃止してしまえば、文部省が出るまでもなく話は収まってしまうと思われるが。
外国を含めた教育システムについての専門家に教えていただきたいと思う。)
- つまり私の感覚では、これまで小・中学校で行ってきた無気力化政策をさらに
大学まで押し進めようとしていると捉えられる。大学のあり方など、文部省から
提案しなくてもよく、私大には、バンカラ大学あり、僧衣の大学あり、で特色もあり
活気もあった。それを、各大学に詰め襟を着せ、髪の毛を何センチまで切り、スカートは
膝下何センチまでにすることといった雰囲気の規則を沢山提案して、すべての大学に
従わせようとしているようである。国公立の非効率・無気力による地盤沈下を救うためなら、
提案は国公立に対してすればよく、今回のように私大も含めて全国一律に同じ枠組みに
組み込もうとすることは、昔の小・中学校義務教育の無味乾燥化・無気力化と同じ道に
繋がると受け止められる。なぜ全国でこれだけ騒いですべての大学でシラバス作成や自己
点検などをやる必要があるのか。むしろ各大学のそれぞれ独自の工夫に任せればいいでは
ないか。少なくとも私大は放っておくべきである。そのようなところから次の時代を担う
ユニークで特色ある人材がでてくると信じるが。一番の対策は、国公立の民営化であろう。
各大学が競って、きっとユニークで教育環境も充実したものがどんどん出てくると思うが。
その時旧国立が敗れても文部省にとってはどちらでもいいことのはずだが?(ひょっとして
文教族の圧力とそれに繋がる票が無くなることが怖いのかな?または、これまでの官庁
としての既得権益が惜しいのかな?)
- 更に、教養審(教員養成..審議会)からの答申で、2000年には教育免許状を
取るためにさらにより多くの努力が必要になる。また、どこから降って湧いたのか、
来年から「介護の経験7日間」が更に必要になる。小子化による子供の減少で、
教員も必要なくなる。しかも国公立の教員養成系大学があり、それを維持するために
他の大学の教育職希望学生を減らしたいために、一般の大学の教職課程をより難しく
しているように思えてならない。しかし、ここで発想の転換をして欲しいと思う。教職
希望学生を減らす努力をするより、教員養成系大学を無くし、より教育免許状を取り
易くする方が今後の日本の教育界のためだと思う。より多くの候補者から、採用側
がその採用試験により、本来の小・中教育に相応しい人材を選ぶ方がよりよい方法だと
考えられるが、どこかこの論理が間違っているのだろうか?今検討されている教職課程
に対する規制は、私のこの提案と正反対のような気がするが。
- とにかく、官僚に規模の適正化や自己規制など期待するのは無理である。彼らは
現存の制度の維持には有能であっても、その制度の是非は分からないのである。誰かが
無知な族議員や官僚の圧力を押し切って行政の簡素化をしない限り、日本の次代を担う
若手の教育もおぼつかなくなりつつあるのではないかと心配である。
- 文部省からの私学助成も教育統制の道具であろうか。(98.01.08)
- 本学は私学助成をかなり高額戴いているとのこと。それについての
記事に有ったことだが、文部省は教育改革など文部省の方針に取組む
積極さに応じて点数化して助成の配分を決めているとのことであった。上述の
ように、スカートの長さやお仕着せの制服を強制しながら、それを守れば
内申点を上げるなどのやり方と同じ発想のことをやっている。というより、
元々このような発想が文部省の官僚主義のものであって、それが今や日本の
教育界に蔓延してしまったと考えるのが妥当であろうか。
- 日本は科学技術立国であり、教育が重要である、等と叫んでいる。それ
ならば、なぜその使命が終わった国立を保護し、私立大学まで規制を強化し
ようとするのだろうか。教育界を活性化するには、すべて私立として自由競争
させればよく、教育統制を強めて官僚の考える雰囲気の大学ばかりを作っても
どんどん魅力が無くなると思われる。国立が駄目になったから、それを救う
ために私大も巻き込んで制服を着せ(つまり私大も引きずりおろして)、
同じようなものにしてしまう目論見であろうか。それは、
今日の金融不安と同じことと見受けられる。つまり非効率な国有銀行
である郵便事業を保護し維持するために、民間の各種銀行との平等な競争を
妨げて置いて、銀行の競争力・活力を殺いでいるのと同じである。
同じ雰囲気の同じような大学なら、私立は授業料が高い分だけ不利であり、
多くは倒産に向かうだろうし、また独創性を発揮する気にもならないで、
日本全国無気力の面白くない大学ばかりになろう。すると次世代の日本を担う
人材の教育は落ち込み、世界に置いてけぼりを食らうしかなくなるだろう。
そうならないためには、日本としては今や国立やそれに絡む文部省を無視して
(当てにしないで)、私立の独創性有る活力と更なる踏ん張りが渇望されて
いると見ているのだが。
- 未だに青少年の教育の問題が騒がれている(98.07.27)。大人が悪い、社会
が悪い、等と言われている。しかし、教育には人手がかかるものである。その
基本のところで無理をしていては、他の点をいくら改善しても無効であろうに。
21世紀の人類は、人類としての問題を多く持つことになる。それを切り抜け
る人材を養成するのに、日本国民として金を惜しむことはないと信じる。40
人学級を20(10)人学級にすれば、多くの問題は解決するはずである。そ
の人件費くらい国家財政(税金)から充分賄えるはずである。今、教職の免状
を取りにくくするなど逆行も甚だしく、もってのほかである。(上記と同じこ
との繰り返しである。すみません。)
- 大学審議会から提案された大学の自己点検や第三者による点検の義務化に
ついて本学でも検討が始まった(98.07.27)。既に私の意見は上述した。繰り返
しになる。
- 私達は教育と研究のために大学で生きているのだと思う。政治家や官僚の
ように、システム作りやそのメンテナンスのために存在するのではない。しか
し、自己点検など各自が始めたら、時間も奪われ、教育研究の中味が疎かにな
り、点検するべき中味が無くなってしまうことになる。本末転倒も甚だしい。
せいぜい、私は第三者機関に点検も外注すればいいと思う。私達の時間を奪わ
れないで済む。しかし、外注のため余計な費用がかかる。そして、きっとその
第三者機関に文部省官僚が天下りするのであろうか?
RIの規制の場合と同じことになるのだろうか?官僚は規制を増やし、特
殊法人などの検査機関を増やし、天下り先を確保し(それ自身悪くはないかも
しれないが)、そうすることによって、民間の活動を縛り、且つ活力を搾取し
ていることになるのではなかろうか?
- 文部省から初等教育の新指導要領が発表され、「ゆとり教育」が重要視され
ることになった。土曜日を休日にし(これには賛成)、学習内容からかなりの部分
を削りこれまでの約三分の二にするというものである。(98.11.23)
- どうしてこういった種類の指導要領なるものを出すのか!「指導要領など無駄だ
から提案するのはよそう」という学識経験者はいないのか!これまで同様、官僚
の代弁者としての御用学者ばかりなのであろうか。
- 少子化、学生の多様化で、大学卒の学力の低下が騒がれて久しい。そして、
大学教育に関する審議会(大学審)案では、大学における教育を学生の多様化
に合わせるべきであるとし、かつ学生の能力評価を厳しくするように指導して
いる。(もちろん大学の教員自身、教育システム、研究能力、など全体的な大
学評価も厳しくすることを求めている。)しかし、大学の中での多様化を推奨
する前に、なぜ小・中学校からの習熟度別教育を提唱しないのだろうか!
- 国民が「平等」に初等教育を受ける権利があるからなのか?本当にこれま
でのやり方が「平等」なのか?!よくできるものには退屈で、よく理解できな
いものにも退屈で、一部の生徒にだけわかる授業を「平等」というのだろうか?
それぞれの生徒がよくわかる授業が「平等」なのではないのか。だから、むし
ろ小・中学校からそのような習熟度別教育をする義務が政府にはあるはずであ
る。教育費用はかかるだろうが、それを税金で行う義務があると考える。現在
は、反対に、世界の最先端を講義するべきである大学に多様な学生を押しつけ
て、そこで初等教育の「不平等」の尻拭いをさせているのである。政府の怠慢
によるこんな非効率な教育システムは早く改めるべきであろう。
- 生徒の能力に合わせた各レベルの小・中学校、または各学校の中での習熟
度別クラスを作り、すべての子供がそれぞれの能力に応じた教育を受けるシス
テムに変更するべきであろう。習熟度別クラスが「不平等感」を生むという反
論があろう。つまり「落ちこぼれクラス」というコンプレックスの話である。
では、現在、クラスの中でよく理解できないで学校が面白くないという生徒に
はそのようなコンプレックスがないとでもいうのだろうか?また、習熟度別ク
ラスを従来のような固定的なものに考えるから、「不平等感」といった議論が
出されるのではないだろうか?少人数性にし、かつ習熟度別間の流動性を柔軟
にすることにより、各生徒の達成感は十分保証され、各人の人間としての自信
の形成に結びつくと期待される。
- そして大学には、大学でその能力を伸ばすべき学生が自己の責任で入学す
るべきであろう。もちろん大学自身の資質も問われ、教育に対する責任もこれ
まで以上に問われるべきであろう。しかし、初等教育を蔑ろにするような方針
を打ち出し、その尻拭いを高等教育に押しつけるこれまでの教育行政では、日
本の若者を育てるべき教育関係者の意欲を阻喪すること甚だしい。どうして規
制ばかりにこだわるのか。もはや小・中学校での規制ももっと緩和して、各学
校(公立も私立も含め)の特徴・裁量にどんどん任せるべき時代になっている
と考えるのだが。
- できる生徒はどんどん進めばいいし、わからない生徒はゆっくり
勉強していけばいい。これまでは、同一内容の授業が行われていて、
わからない生徒の問題が議論されてきた。そして今回の提案も、学習
内容を減らして、わからない生徒が出ないようにしようとするのが目
的なのであろう。しかし、これまでの学習内容でもよく理解できた生
徒はどうしろというのか。若いうちに伸びるだけ伸ばす義務が大人に
はあるだろうに。国力が貧しいときには、大人数のクラスで一律に教
えるのも致し方なかったのかもしれない。今や先進国の仲間入りをし
た日本の経済状況で、少人数の習熟度別クラスを作る余裕があろうも
のなのに、未だに今回の新指導要領並の一律の方針しか打ち出せない
のでは、教育関係者の意欲減退、将来の日本が思いやられるのでは。