- 東大病院の庭にアイソトープが埋められていた事件のあとのアイソトープ
取扱に関する法令改正。
お陰で、自主点検などのRI予防規定の変更や報告書提出を義務づけられました。
そのため、点検のための(業者依頼分)費用の増額が必要になりました。
また、毎月行っていた点検も、より細かくめんどうになり、かつ報告書を作り
提出するといった手間が増えてしまいました。
基本的には自主に任せるのが筋だと思います。小・中学校のような規則を作っても、
官僚の責任逃れでしか無く、現場に大きな負担を負わせることになります。
もちろん、アイソトープを使うことが地球に対する犯罪行為と考えられなくも
ありません。ですからアイソトープを使わせなくするように規制するのもやり方
かもしれません。しかし、生命科学研究の多くの分野がやはりアイソトープに依存
しているのです。メリットとデメリットを考えると納得がいかないところであります。
(生命系でも、できるだけアイソトープを使わない努力はしているし、近い将来かなり
減らせると期待しています。アイソトープの規制のところを
参照して下さい。)
- 阪神大震災で、阪大などの試薬瓶が倒れたりしたので、アイソトープ施設に対し
震度4以上などの災害時の対応マニュアルづくりを迫られた。
災害時に実際に被害を被るのは私達です。ですから災害に対して日頃からどう対処しようかと
一応は考えています。(官僚の方は被害など受けないでしょうが、自分たちは直接被害を
被ってしまうので切実です。)それを明文化しておくのは確かにいいことだと思います。
しかし、その中に、どことどこと点検しろといった形で報告を求めることは、あまりにも
私達の分担・役割・能力を軽視しているように思えます。公務員の序列内で霞ヶ関から
仕事を伝達する場合には、部下を自主性がなく言われたことだけしかできない部品と見なして
指示を出すやり方も有効かもしれません。しかし、民間で、それぞれが生きるか死ぬかで生きて
いる(私大の教員はそれ程の切迫感を持って生きてはいないかもしれませんが)以上、もっと
当事者の能力を信じ、その裁量の余地を残しておくべきではないでしょうか。(私の場合、
これだけ細々と決められたら、そのことだけしかやりませんよ、といった気になります。
各事業所ではそれぞれの事情があり、特別な配慮や仕事があります。でも、そんなことは
もうやりたくないという気になってしまいますよね。)
憲法は万人が快適に生活するための知恵をまとめたものだと思います。政治は性善説に
よって行うべきであり、性悪説に則って行う限り罪人はいくらでも生まれ民衆の活力がなく
なることは歴史の中で示されています。自由度を狭め規則で縛れば、現代の小・中学校の
ように管理はし易くなるかもしれません。でも、それでなくとも自立していないと危惧される
国民性が、ナチの時代の「自由からの逃走」の状況に陥って活力が失われてしまわないかと
心配です。できるだけ自由を許すべきです。規則は最小限がベストです。つまり小さな政府
が理想です。市民が自立している限り、市民が主人公であり、
公務員は市民の生活を快適にするためのサービスマンであると認識するべきであります。一般
市民が何も判らないから、公務員の方でうまくいくように取りはからってやるのだなどといった
潜在意識を持っているとしたら、大きな間違いだと思います。
- オウムのサリン事件で、今度は劇薬・毒物の、業者からの試薬購入や管理の規則が厳しくなった。
塩酸などの試薬も、購入時にはサインをし、鍵のかかる保管庫に一般の試薬と区別して保管し、
その使用についてその都度記録をつけるというものです。確かに、アイソトープでは、製造から
購入・使用・廃棄と、ものがどのように流れたかが判るように記録を残すようになっています。
そして、試薬についてもそのような流れが判れば、オウムのような事件の時に、警察が試薬の流れを
突きとめるのが大変楽になるとは思います。しかし、オウムが毎月や毎年起こる事件とは考えられ
ません。そのような事件に対して有効であるからとして、各種試薬の流れを(全てとはいいませんが)
つかめるような体制にするのは、私達の方でもある程度の労力を要し、その分仕事や研究の時間を奪われ
余分な気を使うことになって、仕事の能率を落とす元になります。
役所や警察が、たまにいる異常な人間の行動に対処するのが少し楽になるという目的だけのために、
(日常の業務に非常に差し障りができるというのではないにしても)毎日の仕事の少しずつの
時間を取られるのは何としても理解に苦しみます。役人の責任逃れでしかないと考えて
しまうのは、私だけでしょうか。
もちろん,サリンや原爆で数百万人もの殺戮が行われるとしたら、それが数十年に一回のことでも大事
件です。その様な可能性を防ぐには、日常の細々とした注意の積み重ねが重要だという論理も納得のいく
ものです。しかし、それだからこそ、規制・規制・規制によるマニュアル化に反対なのです。警察と出来
上がったマニュアルやシステムに任せておけば安心だというのではないはずです。最後は個々人の注意です。
また、時代はどんどん変化し、そんなシステムはすぐに錆び付いてしまいます。日頃注意するのは、我々
自身であるべきです。その為にこそ、自立が必要であり、その為にこそ、もっともっと自由が必要なのだ
と思います。(日常の活動についての取り決めもある程度は必要です。結局は規則と自由の間のバランスが
問題なのです。それが、あまりにも規制による取締に偏りすぎているので、もっともっと私達の方の自由度
が欲しいと言うことなのです。)
- そして、今度の動燃の問題です。一応、アイソトープの使用・管理には十分注意するようにという
伝達があったと伺っています。
同じ頃、大阪大学でのアイソトープ持ち出し・ばらまき事件もありました。こちらの方は、動燃の問題に霞んで
しまっています。でも、これらの事件(特に動燃の問題)の決着が付いたら、どんなお達しが科技庁から降りて
くるのやらと、戦々恐々です。アイソトープ取り扱い施設を管理するなど、もういい加減やりたくなくなっています。
今度さらにきつい規制が来たら、もうだれもアイソトープを使う実験など行いたくなくなると思います。「アイソト
ープは、地球に対する害悪だから使わせない」という目的は達成されるでしょう。でも、その時、日本の生命
科学系の研究レベルが、今でももちろんアメリカに遅れているのですが、もはや立ち上がれないほど置いてけ
ぼりを食らうのではないかと心配します。