哲学の事柄

歴史


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 歴史とその認識

 歴史を認識するとはどういうことであろうか。この問いはもちろん、歴史そのものをどう考えるか(歴史観)と深く連関している。よく知られているように、自然主義的な歴史観と観念論的な歴史観という、異なった二つの考えがある。両者を折衷した考えもある。私はこれら三つの考えに対して、作用論というべきものを提起したい。

 自然主義的歴史観
 自然主義的歴史観によれば、歴史家の仕事は事実の確認である。ある歴史的事件は、それが実際に起きたなら、ある時ある場所で、(他の仕方ではなく)ある仕方で起きたのであり、歴史家の仕事はそれを確認することに尽き、この意味で、歴史的現象は自然現象とどんな違いもない。歴史的事実の正しい認識というのは一通りしかありえず、その事実について、二人の歴史家の間で異なる解釈が見られたら、それは一方が正しいか、両方とも間違っているかのいずれかである。
 歴史家によって明らかにされた歴史的事実は、歴史家や一般の人びとにとって意味を持ちうる。それを様々な価値尺度に照らして評価できるし、さらに、そこからなんらかの教訓を引き出すことができる。しかし、それは歴史家の仕事にとって本質的なものではないし、だいたい、評価や意味は主観的なものなので、学問にはならない。
 特定のイデオロギーに基づいて事実を歪めたり隠したりすることは論外である。しかし、実際には、政治的な背景からこのような歪曲や隠蔽は起きてきたので、歴史家はこのイデオロギーや解釈の厚い層を突き抜けて、事実そのものに迫るべきなのである。
 自然主義は意味を排除するために重要な事実とそうでない事実を区別できず、また、歴史家に諸事実を関係づけることを禁ずる。その結果、歴史は無味乾燥な事実の際限のない羅列になってしまう。しかし、実際には、歴史家は無数の事実の中から選択し、一つの一貫性ある物語の中に事実を編み込んでいくのではないか。また、人間は動機や信仰に動かされて行為するのに、自然主義はこの動機や信仰といった主観的な要素を考慮できないのではないか。

 観念論的歴史観
 自然主義的歴史観に対するのは、観念論的な歴史観である。自然主義が歴史を自然と同列に扱おうとするのに対して、観念論的歴史観は歴史と自然の違いを強調する。歴史は自然と違い、人間が作ったものであり、歴史的事件には行為者の意図が働いている。自然科学と違い、精神科学では人間が人間を認識するのであり、人間性が普遍的なものなら、どんな異質に見える文化や隔たった時代の出来事も、本質的には理解可能である。
 たしかに、歴史的出来事も自然的環境の中で生起するし、また、物質的な基礎なしには生起しないが、しかし、重要なのは、その出来事に与えられた意味や行為者の意図であり、これを無視するなら、歴史的現象を捉えられない。たとえば、民衆が暴動を起きた事実は確認できても、どのような動機から民衆がそうしたのかは理解できない。人間的現象はそのものが、意味によって織られている。紙幣がただの紙とインクに尽きるのだとしたら、経済現象は説明できない。
 そして、意味は主観的なものであるから、歴史学者はこの意味を彼自身の仕方で再び生き直すのであり、それによって、過去は生き生きとよみがえる。歴史は歴史家の独特な解釈の中に存在する。クローチェが看破したように、歴史はすべて現在史である。
 だが、このように考えていくと、歴史は歴史家の恣意的な主観的構成物ということになってしまわないであろうか。そうだとすると、同じ山を描いたらしいさまざまな絵はあるが、山そのものがないということになってしまう。歴史家それぞれの歴史観があるだけだということになり、それらのうちのどれが正しいかを問うことが無意味になり、相対主義と懐疑主義に陥る。


 折衷論と作用論
 この二つを折衷した考えがある。折衷論によれば、歴史的出来事は事実として生起したのであるが、過去はもはや存在しないので、歴史家はその痕跡や証言、伝承を使って、その出来事を再構成しなければならない。その際、足りないところを補う再現的な想像力が歴史家には必要である。歴史はこのように、歴史家の想像力と史料との相互作用の所産であり、どちらを欠いても歴史は不可能である。自然主義歴史観や観念論的歴史観は、この必要不可欠な要素の一方を排除する点で誤っている。
 私の見解では、自然主義は事実をとり、観念論は意味をとり、折衷論は両方をとるという違いはあるが、事実と意味の二分法という、疑わしい二分法に基づいたままである。事実は与えられる何か客観的なもの、意味はそれに対して人間主観が投げかけるものであるが、この二分法によって、歴史の本質的な側面が抜け落ちてしまう。その本質的な側面とは、過去の出来事が人間に働きかける(影響を与える)、語りかけるということである。現在の出来事や人間の行為を制約し意味づける、ということである。
 この働きかけ、ないし語りかけは、出来事に由来するという意味では主観的なものではなく、また、主観に届いて主観の意図を超えて主観に働きかけ、主観のあり方を変更するので、「主観性を排除する(から独立した)」という意味で客観的なのでもない。それは存在論的なのである。歴史のこの存在論性は、事実と意味の二分法では捉えられない。意味と対立させられた事実は沈黙していて語りかけず、事実と区別された意味は、主観に由来するゆえに主観を変えることはできない。
 歴史の働きかけは、ある出来事に巻き込まれるという直接的な影響だけでなく、その出来事によって成立した制度の中で生活するというような間接的で静かな影響も、そしてまた、「大化改新が起きなかったら今の日本は違っていただろう」というような遠い影響も含まれる。重大な出来事ほど広い範囲の人びとに後世までまで影響を与えるのであり、この重要性や意義、影響力は出来事そのものに属すのであるが、事実と意味の二分法はこの出来事そのものが持つ意味を、出来事から切り離して主観性の側に帰してしまう。
 このような働きかけ(作用)としての歴史は、どのように認識されるのか。ガーダマーから学んだ私は、歴史認識は歴史のこのような働きかけの一部であると言いたい。重要な出来事は人びとに、他の出来事に影響を与えるが、同時に、そこには、その出来事がどうであって、どう評価されるべきなのか、についての議論を含んでいる。前学問的な歴史談義も歴史学者たちの歴史学的認識も、その出来事が現在に与える影響の随伴現象なのである。影響力の大きな出来事ほど、多くの議論を巻き起こし、議論という出来事がまた新しい議論の出来事を惹き起こす。