哲学の事柄

自我


事柄
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 「私」の固有性
 自分とまったく同じ経歴や性格、能力、顔かたちを持つ人間は、世の中にだれ一人としていない。似た顔の人はいても、微妙には異なっているだろうし、他の点では大きく違っているであろう。しかし、「私」が他人とは取り替えがきかない固有な存在であることは、単に、経歴や性格、能力、顔かたちのようなものの組み合わせに依存しているのか。
 

 その人そのもの?
 かりに、経歴も能力も顔かたちもまったく同じ人物がいたとしても、「私」が二人いるとか、二人の人物が同じ「私」を共有していることにはならない。「私」は経歴や性格などの外面的な諸属性には還元できない何かではないのか。ある人をその美貌のゆえに愛したり能力のゆえに尊敬するなら、美貌や能力は病気や事故、老化などによって失われるので、失われた時点で愛も尊敬も終わることになってしまう。
 それでは、その人そのものを愛し尊敬すべきであるということになるかというと、パスカルは、人格とか「私」とかいうものは抽象的で愛や尊敬の対象にはならないと言う。

 内面の私秘性
 他人がどう考え感じているかは、直接見えないから、その表情や言葉の内容・響きから推測しなければならない。それと同様に、「私」の内面は他人には本当には分からないであろう。痛みのような単純な感覚さえ、他人は共有できない。かつて似たような痛みに苦しんだことを思い出して自分に同情してくれる人はいるかも知れないが、思い出された痛みと今感じている痛みは違うし、それに、まったく同じ質の痛みであるかどうかは、確かめようがない。

 内面と言語・身体
 「私」の内面は他人には完全には分からない。しかしながら、人間の思考は歴史的・社会的に共有された言語によって可能になり、そして制約されている。感じ方や感覚も、その人が属す伝統や、親から遺伝的に受け継いだ人間としての身体の構造にかなり規定されており、だから、共感も可能なのである(泣くから悲しい、というのもある程度は真実だ)。しかも、このような言語や(遺伝的に受け継がれる)身体といった共通的なものによる制約は、ほとんど意識されず、気づかれにくい。だとすれば、人間の内面の私秘性はあまり誇張されるべきではない。

 記憶喪失・精神病・脳移植
 社会的な事件でそれまでの地位を追われたり、事故にあって身体を損傷したり、精神的なショックで性格が変わっても、別人になるわけではない(「別人のようになる」のだとしても)。しかし、完全に記憶力を失ったり、精神分裂症になった場合はどうであろうか。自己を意識するには、過去の自己をイメージとして突き放して反省することが必要であろうが、記憶を失うとそれが不可能になる。ある種の精神病では、他者と自己の境界が不安定になり、自我が崩壊することもある。さらに、皮膚や肝臓ではなく、心の座である脳を移植したら、自分の「私」の代わりに他人の「私」が入り込んでくるのではないだろうか。

 世界の中の「私」
 したがって、「私」は完全に物質的・文化的世界の外にいるとする考えは維持できないように思われる。「私」は世界の中に、文化や身体の中に、深く根を下ろしているはずである。

 精神活動・経歴・説話
 哲学者は自我について、ざまざまな見解を打ち出してきた。それらの考えを精神活動説、実体説、超越説、関係説に分類する。
 精神活動説は、内面を反省してもその都度の感情や思考の出来事が見いだされるだけであるという理由から、自我とはそのような感情や思考の総体であると主張した。だが、その都度の感情や思考があるだけでは、直前の思考はもはや「私」の思考ではないということになって、精神活動はバラバラになり、精神の統一性と連続性が説明できない。
 自我とは、自分を指すときに使う「私」という代名詞に帰される性格の総体、つまり、経歴(biography)であるとしたラッセルの考えや、自分に語って聞かせる説話であるとするレインの見解は、自我を経験的なものと見なしている点で、精神活動説と軌を一にする。だが、それらは統一的な自我の構成に対する言語の役割を重視する。このような立場をとった場合でも、諸属性を帰される「私」、説話を語る「私」は誰なのかという問題が再び生ずる。

 実体・論理的条件
 実体説は「私」ないし自我を物質や身体から自律した非物質的な実体と見なしたが、これだと自己意識の再帰的構造がうまく説明できない。「私」が自我を意識するとき、自分を意識している「私」は何なのであろうか。自分(実体)を意識する「私」も実体であるとすれば、この二つの実体はどのような関係にあるのか。
 これに対して、超越説は「私」を精神活動の統一性を可能にしている形式的・論理的条件と見なした。その場合、「私」は反省の対象に絶対ならない、世界の中には存在しない不変の何かであるということになる。だが、すでに見たように、「私」は言語や身体に影響される時間的存在である。

 関係説
 キルケゴールは自己とは心と肉体の関係に対する関係(意識することを意識する)であるとし、ミードは主我(意識する自我)と客我(意識される自我)の関係であるとした。この関係説は自己意識の再帰構造をうまく説明できる。自己の所有物や自己の身体、自己の経歴やイメージは自己として意識されるが、このように意識される事柄への、意識による関わりそのものが、広い意味での自己である。

 統一的な働き
 自己は自己意識であり、意識はつねに何ものかについての意識であり※、意識されたものとしての自己を含んでいる。だから、自己は関係項を含んでそれに先立つ関係である。自己は意識として働きであるが、中心を持つ働きである。この統一性ないし中心性は、おそらく、神経系によって可能になった。また、意識される自己は他者と関わる自己であるから、自己への関わりとは自他関係に対する関わりである。自己はだから、関係の関係と言える。自己と関わる他者とは、自然の諸物や現象であり、他の生物であり、他の群や族であり、同類の他の個体に対する自己の身体や経歴である。

 物体・生体・身体
 自己意識は自他の関係の意識である。
 物体の世界には自他の関係はないよう見える。ある物体を人間が主題化して他と区別する行為が介入しないかぎり。しかし、ある水滴は別の水滴と出会うなら、結合していっそう大きな水滴となるが、相手が油滴であればはじくのだから、自他関係が全然ないわけではなさそうだ。
 動物は共食いせずに獲物を捕食しているのだから、自分が属す類を他の類から区別できる。この自他関係は動物の個体間にも成り立つ。たしかに、ある種のクラゲは決まった身体境界なしに結びついたり途切れたりするので、個体を持たない。しかし、高度に神経系が発達した動物であれば、制御できる自らの身体を、制御できない、同類の他の個体の身体から区別できるし、この身体的な自他関係をある程度は意識しているにちがいない。

 人間
 人間は言語と記憶を持つことにより、自己の身体を意識するだけでなく、昨日そのように振る舞った自分を想起して反省し、また、自分がこれまで行ってきた行為や自分に起きた様々な出来事を集約して、自己の経歴を物語ることができる。こうして、人間が意識する自他関係の自と他は、他の動物に比べてとても内容豊かなものとなる。だから、名誉や経歴の違いなど、人間にとって自他の区別は重大な関心事になる。

 自他構造の重層性
 人間は、直観的そして言語的に、他の生物から自分たちを区別し、自民族を他民族から区別し、自己を他人から区別している。自他の関係はこのように、共同性のさまざまなレベルに妥当する、重層的なものである。だから、社会や民族もまた自己を持つのであり、この自己の同一性に基づいて、現世代は過去の世代がたとえば他の民族に対して犯した罪の責任を負うことになる。ところが、存在するのは個人だけで、民族や人類などの共同体的なものは概念にすぎないと考えるならば、過去の世代の罪や未来世代に対する責任が説明できなくなってしまう。また、文化や言語、身体構造などに一切媒介されない孤立した個人の(その個人にとっては確実な)閉じた自己意識から、逆に他者や共同体を構成するという、独我論的倒錯もそこから生じた。自己意識の哲学である近代哲学はしばしばこの倒錯に落ち込んだ。

※ 実験的に人を、感覚器官を被覆して外界の刺激が入って来ない状況におくと、意識の低下が起きるという。意識は意識されるものや、意識と意識されるものを媒介する感覚器官に依存している。