哲学の事柄

存在

事柄
存在 認識 言語 歴史 芸術 自由
生命 人間 自我 時間 善悪 権力



 存在とは何か
 宇宙人や河童のように存在しているかどうか疑わしいものは除外しておくとしても、目の前の花瓶も富士山も私も存在している。存在しているものは多数あり、その意味で存在はありふれており、われわれはその意味をよく分かっているはずである。しかし、「では、存在とは何か」と改めて問われると、どう答えていいか分からないのである。ところが、哲学は存在とは何かというのをあえて問うてきた。哲学のなかでも、とくに存在論とか形而上学と呼ばれている分野で存在問題がテーマとなってきた。

 感覚的確認
 われわれは何を基準にしてあるものが存在しているとか存在していないとか決めているのであろうか。今日のほとんどの人は、それは感覚的に確認できるかどうかで決められると考えている。存在しているものは視覚やその他の感覚器官で捉えることができるが、存在しないものはそれができない。ある人が「ここに花瓶がある」と主張しても、それを目で見て手で触れて確かめられなければ、在るとは言えない。宇宙人はいるかも知れないが、それを見るまでは「いる」とは言えない。
 この考え方だと、個々の犬、「ポチ」など呼ばれる特定の具体的な犬は触れて見ることができるので存在するが、「犬は猫より人間に忠実である」と言うときの犬、概念としての犬は、対応する実在を持たない。「犬」は犬の性質を持った多くの生物個体を集合的に指し示すための記号にすぎない。このような考え方は、概念が存在すると見なす実念論に対して、唯名論と呼ばれる。

 感官刺激は存在の証拠か
 今日では当たり前のことに思われるこの考えであるが、しかし、いろいろと疑問を挟むことが可能である。まず、我々は錯覚をすることがある。たとえば、電車に乗っていて、隣の車両が動き出すと、自分が乗っている車両が動き出すように感じることがある。だとしたら、感覚は信頼できる存在の基準にはならないのではないか。また、そもそも感覚から存在は引き出せるのであろうか。「触覚が刺激されたなら、その背後に刺激しているものがあって、それが皮膚を刺激しているのであろう」と思う。だが、これはあくまで推論であり、もしかしたら触覚が刺激を演じているだけかもしれない。みんなが笑っているからという理由で、何がおかしいのか分からずに笑う人のように。ガイガーカウンターの針が揺れれば放射能が存在するはずだということであり、これも推論で、実際には、われわれは揺れる針しか見ていない。手で触れた同じ花瓶を目でも確認できるではないかと言われるかも知れないが、視覚が触覚と共演している可能性は残る。

 制度や出来事の存在
 物理的な存在者は触れたり見たりできるが、千葉市立桜木小学校や日本国家は見たり触れたりできない。たしかに、小学校の建物や国会議事堂を見ることはできるが、しかし、校舎を建て替えるので、別の建物を借りて授業をしたからといって、その小学校が消滅するわけではない。「交差点で事故があった」と言うが、事故や会議のような出来事・現象は、そのものとしては触れることはできないから、存在しないのであろうか。制度や社会は存在者と存在者の諸関係の複雑な絡み合いであり、出来事は複数の存在者の戯れにすぎず、ただ便宜的にこの絡み合いや戯れを実体化して「存在している」と言っているだけなのではないか。だが、われわれが個物と思っている生物の個体も、多くの無数の細胞の協働作業にすぎないのではないか。物質を構成している素粒子が粒子であるとと同時に波であるのだとすると、波は実体ではなくエネルギーであるから、物質的な存在者さえ存在しないということになってしまわないであろうか。

 不変性・理念性
 感覚的確認を基準とするのは比較的新しい考え方で、かつては、不変性を存在の基準とする考え方が支配的であった。真の存在者は生成消滅する現象の背後にあって、変わらないものである。生成消滅するものは無から現れて無へと沈んでいく。可変的なものはこの意味で無を含んでいるので、真には存在しない。それは希薄化された存在である。今日のわれわれが間違いなく存在していると思っている物質的な存在者こそは、いつかは朽るという理由で、真には存在しないものとなる。真に存在しているものは、だから、可変的な感性界を超えたところにあるに違いない。こうして、普遍性とともに理念性が存在の基準となった。プラトンは不変のイデアが集まるイデア界を想定し、感覚的な事物はそのイデアを模して作られる不完全な存在者と考えた。近代科学が承認する存在者も、感覚的に確認できるだけでなく、追試可能、つまり繰り返し確認可能、でなければならない点で、科学もどこかで、不変性を存在の基準としているのである。

 無差別
 無差別・無規定が存在の基準であるといる特異な考え方がある。存在はただ在るとしか言いようがないもので、それについての説明もできない。それはいわばのっぺらぼうなのである。ヘーゲルは存在を無規定的直接性とした。存在は反省も質も欠き、内も外もなく、自己とも他とも同一で、空虚である。その意味で、それは無であるのだが、そのように無と反省されることにより、存在は生成へと転化する。松浪信三郎はサルトルの影響を強く受けているが、彼は存在はそれ自身において在り、それが在るところのものとする。ところが、人間の意識は存在のなかに無を分泌する。存在のなかのあるものが、まず、意識する私で「無い」もの(意識の対象)として、次に、机として、つまり、机では「無い」ものでは「無い」ものとして、意識される。われわれが経験する多様な森羅万象は意識によって生み出されたのだという。

 充溢
 青くて軟らかい存在者があるとき、青いとか軟らかいといった諸性質が存在者に外的に付加されると考えるなら、存在者そのものについては、たしかに、ただ「存在している」としか言えないであろう。しかしもし、これらの性質のすべてが、他の存在者との関わりも含めて、すべて存在そのものに含まれているとしたらどうであろうか。世の中には多様なものが在り、未来の世界の多様性も含めれば、性質と関係の多様性は無限である。その無限の多様性を存在が含んでいるのだとすれば、存在とは無際限・無尽蔵の充溢のことではないか。

 可能性と現実性
 存在者は無際限の存在から発現し、ある特定の形やら性質やらを備えて現れる。存在は受精卵のようなものである。受精卵が細胞分裂を繰り返して、内部に四肢やら心臓やらを形成して分化していくように、存在はある仕方で分化し、明確な輪郭をとるようになる。青くて軟らかい存在者の青さと柔らかさは、その存在者の存在が限定されたものである。この限定の過程は白色自然光がプリズムで分光されるのと似ている。
 存在者は別の仕方でも分化した可能性をはらんでいるので、ある仕方で分化していくことによってある可能性が実現される一方で、他の可能性は可能性のままにとどまる。しかし、他の可能性は存在者のなかに隠れており、けっして根絶やしにはできない。だから、どんな存在者も他のものに転化する可能性をもっている。ある生物種は進化する可能性があり、道具は意図された利用法とは別の仕方で利用することがときに可能である。分化すれば充溢から隔たるが、けっして充溢から切り離されることはない。「あるリンゴは青い」というのは、言い換えれば、「そのリンゴは青く(、)存在する」ということであり、リンゴは存在し続ける。可能性は完全に実現し尽くされることはない。

 無・時間・虚構
 どんな存在者も存在へと還っていく。それは存在者が消滅する、言い換えれば、無に還るということである。だから、存在者は無と対立するのだとしても、存在は無と対立するのではなく、むしろ、無と一致する、と言うべきである。逆説的ながら、存在しているとは、存在していないということである。ところで、存在から存在者が明確に形を現してゆけばゆくほど存在から離れるが、それは存在が乏しくなる、つまり、空虚になるということである。言い換えれば、無になるということであるが、これは別の意味での無、存在と対立する無である。
 感覚的確認を存在の基準とすると、過去や未来のものは見たり触れたりできないから存在しないということになってしまう。だが、存在が充溢であり、無限の可能性の宝庫であるとしたら、未来は可能性として、過去は可能性へとふたたび落ち込んだ現実性として、存在に参与し、そのかぎりで存在している。
 宇宙人や河童は感覚的に確認されていないから、存在しないと見なされている。しかし、それらは可能性としては存在している。ただ、それはあまり劣勢な可能性であるので、現実ではなく空想や幻覚に分類されてしまう。だが、それは狭い意味でのみ「存在しない」のであり、広い意味では存在している。逆に、優勢な可能性は現実と見なされている。現代では科学がとても優勢な可能性なので、科学が承認しないものは劣勢である。フィクションが読者の前に開く世界は、フィクションであるゆえに無意味なのではなく、読者に、変えられないと思っていた現実がはらむ、別の現実の在り様をかいま見せる。
 このように、存在を充溢と定義することにより、感性的に確認可能なものと定義するよりははるかに広い範囲のものに存在を割り当てることができる。

 種と個体
 存在者はまず種であり、ただ副次的にのみ個体である。存在について論じるわれわれ人間の視点から見た場合、存在者は物質・生命・精神という三つの層を成しているのであるが、どの層においても、種は個体に先立っている。花崗岩は一定の組成を持つ以上、花崗岩の全体は限定された存在として、存在者である。花崗岩の石ころ一つもまた存在者であるが、花崗岩全体からの一つの発現として、花崗岩全体を前提としている。さて、あるとき、物質的な存在者のなかに、特異な仕方で組織化された、生命という存在者が誕生した。生命の層でも、全体は要素に先行する。松は松の遺伝子や性質をもつがゆえ、存在の、そして、生命の一つの現れである。松の個体もまた、松という種のひとつの発現であり、存在者である。だから、「個々の犬だけが存在し、犬一般は存在しない」という唯名論は修正を受ける。犬一般はいないとしても、犬という種は存在し、これは個々の犬に先立っている。

 存在者間の関係
 存在者が他の存在者に関わる仕方もまた、可能性として存在に含まれている。ある存在者の活動は他の存在者に影響を与え、また、ある存在者は他の存在者と協調したり対立したりする。その存在者がある優勢な可能性を持っていても、他の存在者との関係により、その可能性が実現されないことがある。逆に、劣勢な可能性が他の存在者との関係で引き出されることもある。
 人間による加工や認識もまた、このような関わりの一つである。加工し認識する人間もまた他の多くの存在者と並ぶ存在者である。木を加工して家具を組み立てる人間の能力(可能性)は、木材が持つ可能性と織り合うときにのみはじめて実現される。だから、かんなで木を削るとき、木目を無視して逆目で削ると、ささくれ立ってしまう。不活発・無構造の素材に形や意味を押しつけると考えるなら、素材は死んでしまう。逆に、素材は生かされなければならない。
 物の性格や構造の認識も同様で、それは人間の固有な可能性(能力)であるが、この可能性は同時に、現象がもつ可能性と織り合わなければ実現されない。物の認識はその物にふさわしい仕方で起きなければならない。