哲学の事柄

芸術


事柄
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 芸術/非芸術
 芸術と芸術でないものを分けているのは何か、芸術でないものに対して芸術作品がもっている固有性とは何か、つまり、芸術の本質とは何なのか。
 芸術作品は人間が作ったもの、つまり、人工物である。食器や時計、用水路、ビルなどはすべて人工物であるが、それらものは多くは芸術作品ではない。どんな工業製品も一定のデザインで作られているが、だからといって、それをただちに芸術とは呼びにくい。
 芸術作品もそうでない人工物も、材料の点では変わらない。木彫の芸術作品も木製の椅子も同じ木からできているのだから、芸術の本質は材料にはないように見える。すると、形や構造に芸術の本質はあるのか。だが、たとえば、音楽にとって音質はどうでもよいものなのか。人間が作るものの多くは道具であるから、一定の有用性があるが、芸術作品はそのような有用性からは自由であるように見える。だが、だからといって芸術はゴミのような無用物と同じなのかどうか。
 同じ芸術作品の中には、価値のないものも優れたものもある。芸術の本質を芸術性と呼ぶことができれば、優れた芸術作品とは芸術性の大きな作品ということになろうか。芸術と非芸術の違いも分かれば、ある芸術作品が優れているかどうかが分かるに違いない。
 芸術作品はそうでないものと違い、それを見る(聴く)者に特別な仕方で働きかける。人は優れた芸術作品に接して、心を動かされる、つまり、感動する。優れた芸術作品ほど大きな感動をもたらす。この感動がどのようなものであれ、それを惹き起こすのは、芸術作品がほかの人工物とどのように違っているからなのであろうか。

 5つの芸術観念
 芸術の本質については、いくつもの考えが提案されてきた。これまでの芸術論を、それが及ぼす作用ではなく、芸術作品の在り方や生成に注目して分類すると、1.模倣論、2.均斉論、3.表出論、4.現象論、5.異化論などに分類できる。

 模倣論
 模倣論は芸術は自然ないし現実の模倣であるという考え方である。この考え方に拠れば、芸術家は鏡のように、自然や人物や歴史的な出来事を描き出す。もし芸術が自然の模倣でないとしたら、画家は風景や人物を見ながら描く必要はない。アリストテレスの言うように、模倣はおそらく人間の基本的な欲求で、芸術はそのような欲求の洗練された形態なのである。芸術作品を鑑賞する者も、絵や彫刻を見れば、そこに何が描かれているかを知ろうし、知ることができれば作品を理解できると感じる。過去の芸術作品からその時代や社会を如実に知ることができるのは、芸術が模倣だからである。
 模倣に理想化や典型化の要素を加えようという立場もある。色形だけが模倣の対象ではなく、動きや雰囲気、神話的出来事のようなものも対象に含めることが可能かも知れない。矛盾に満ちた社会的現実を暴くような積極的で批判的機能を芸術に与える場合もある。
 しかし、現実の模倣というなら、その正確さからすれば、芸術家は写真機のような機械にはかなわない。写真機の発明とともに、絵画は消滅したであろうか。写真も芸術にはなるが、それは正確に現実を映し出しているから芸術なのではない。人体を型にとって像を作っても、それは芸術にはならない。抽象芸術や構成主義の絵画・彫刻は、模倣論の基準ではリアリズムの作品よりも劣っているはずであるが、われわれは必ずしもそうは思わない。文学の分野でも、フィクションの方がノンフィクションよりも芸術として劣っているわけではない。

 均斉論
 形の上で釣合がとれた構成を持つ人工物が芸術である、という考え方がある。何と言っても、整ったものは美しい。雪の結晶は幾何学的であるゆえに、美しい。美人とは整った顔立ちの人である。逆に、シンメトリーが崩れたものはみにくい。美の本質は均斉、釣合、ないしシンメトリーにあり、美しいものは諸部分が釣合い調和している。八頭身美人というが、美には決まった割合ないし比が存在する。この比を実現できたものは特別な安定感を、それを見る人に与える。
 芸術はこの美を人工的に実現したものである。振動数が整数倍の倍音(和音)は調和的に心地よく響くが、音楽はこの和音によってこそ美しい。詩は行と行の間に、同じ音の連なりを作ることにより二つの行の間に対称性をつける。
 だが、シンメトリックな構成というなら、複雑なものも、機械やコンピュータの方が得意であろう。ピカソの絵に描かれた人物は腕や顔が異様に大きく、ジャコメッティの作った細長い人物たちは、現実にいたら立ってられまい。ブリリアンカットのダイヤは美しいかも知れないが、われわれはそれを芸術作品とは見なさない。

 表出論
 表出論によれば、芸術家は特別な才能ないし感性を与えられた人間で、芸術作品はそのような芸術家の心情の吐露、特別激しい感情を芸術家が物的なものに反映させたものである。模倣論で芸術家の精神が鏡であるなら、表出論ではランプである。科学は外界を対象とするが、文学や芸術は人間の内面にかかわる。絵画も客観的な現実を模倣しているようで、実は、それらに託して芸術家の内面が表現される。そうだとすれば、芸術を正しく理解し享受するのには、作品を突き抜けて、芸術家の心情にまで達し、芸術家に共感し、創作過程を追体験しなければならない。
 だが、キャンバスに絵の具の壺をたたきつけて怒りを爆発させても、芸術にはならない。芸術において感情が重要であるとしても、それは一定の安定した形式に流し込まれなければらない。芸術家の卵たちは、弟子入りして師の技法を学び、あるとき自分自身の独特な様式を確立し自立する。表出論はこのような芸術創作における長時間の労働や技術の習得・適用などを考慮していない。
 芸術の享受が作品を突き抜けて芸術家にまで達するところにあるのなら、作者が知られているか不明かが作品理解の決定的な鍵になるはずであるが、本当にそうだろうか。作者不明の文学作品は、作者の知られている作品よりもつねに優れているだろうか。

 現象論
 現象論によれば、芸術は一種の象徴である。芸術はそれ自身は感覚的・物質的・具体的なものであるが、そこにイデアや存在、理念のような、それを超えたものが現れている。イデアは自然でもないし、また、心の中の観念でもない。それは現実には実現することが難しいが、実現すべき理想、あるいは真なる存在である。現象論では美は人工美に限定されない。たとえば、人体であっても人間のイデアである魂が高貴であれば美しい。
 イデアそのものは手に届かないが、芸術を通してわれわれはイデアをかいま見ることができる。若い男性の石像を通して男性の若さの理想を、ベートーベンの第九を通して平和の理想を見ることができる。イデアを見ることにより、イデアの世界を忘却してしまったわれわれは魂を動かされる。イデアそのものの美しさから、あるいは、イデアが感覚的な世界に現れる際の輝きのゆえに、芸術は美しい。
 だが、現象論には問題がある。現象論は宗教的な芸術にはよくあてはまるが、歯ブラシや空き缶を利用したポップアート、日常生活の感動を表現した俳句がイデアを体現しているとは考えにくい。また、鳩が象徴する平和が尊いからといって、鳩の絵がすべて芸術作品だということにはならない。

 異化論
 ロシア・フォルマリズムやブレヒトが唱える異化論では、芸術はわれわれの鈍麻した日常的感性の刷新をもたらす新しい形式である。包丁のように、言葉も感覚も使っているうちに鈍くなってくる。最初は新鮮な経験も、玩具に遊び飽きた子供と同じで、日常の中で繰り返されることにより当たり前になり、また、言葉は使い古されて、経験や現実を指示せずに、辞書に載っているような死んだ意味を直接連想させるようになる。
 芸術はこのような日常化に対する戦いである。芸術作品は現実を新しい奇異な形式で(珍奇な事物や現象をということではない)われわれの前に提示するが、われわれは形式をその新奇性のゆえに意味に結びつけることができず、理解するために現実を見直すのである。こうして、日常性の中で麻痺したわれわれの感性は覚醒され、現実とのみずみずしい関係が再建される。
 たとえば、「夏が来て渓川(たにがわ)が水温(ぬる)む」と言えば、これは通常の言葉の結合なので、われわれはその意味を理解するが特に何も感じない。しかし、「渓川が身を揺さりて夏来たる」(飯田竜太)と言えば、渓川が身を揺するというのはいったいどういうことなのかを理解するために、かつて渓谷を歩いた経験を振りかえる。

 私は基本的には異化論に同意するが、異化論をさらに存在論化したいと思う。異化論は表出論などと違い、芸術に認識機能を認める。芸術は現実との生き生きとした出会い、つまり、認識の更新である。私は認識を認識されるものの可能性の実現様式の一つと考えるので、認識の更新は同時に、存在の更新である。シクロフスキーは「石を石らしくするために、芸術と名づけられているものが存在するのだ」(「方法としての芸術」)と述べているが、芸術によって存在者は貧困化した状態から脱して、その存在者が持つ本来の充実した可能性に満ち満ちる。芸術を新しい形式と定義すると、芸術の本質を形式にのみ見ているようであるが、新しい形式によって、表現されている内容もまた刷新されるのである。