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時間の捉えがたさ 時間とは何か。アウグスティヌスは「いったい時間とは何でしょうか。誰も私に尋ねないとき、私は知っています。尋ねられて説明しようと思うと、知らないのです。」(『告白』第11巻第14章)と述べている。時間はわれわれがよく知っているはずなのに、もっとも説明しがたいものの一つである。 幻想説1 時間については古来からいくつかの考えがある。なかでも極端なのは、時間は存在しない(幻想である)という考え方である。パルメニデスの弟子ゼノンが言うには、運動には時間が必要であるが、瞬間は点であって延長を持たないから、ある瞬間における矢は動いていない。このことはどんな瞬間についても言えるので、飛ぶ矢は動いていないと言うべきだが、これは矛盾だから、運動は、したがってまた時間は、不可能だというのである。 しかし、瞬間を抽象的な幾何学的点になぞらえるところに、もともと、無理があるのではないであろうか。われわれの経験する瞬間はとても短いだけで、(われわれが知覚する空間上の点がやはりわずかにしても面積を持つように)やはり一定の幅を持つ時間間隔のことであるから、実際には、矢は少しは動いているのである。 ベルグソンによると、時間を時間軸のような仕方で空間化して表象する根強い習慣に反して、本来の時間は意識の諸状態の相互浸透であるという。しかし、これは言い換えれば、意識の外の物理的現実は相互浸透のない幾何学的空間であるということである。実際には、幾何学的に構成された空間とは違い、現実の空間を構成する点は他の点と相互に浸透し合っているのでではないか。ベルグソンはゼノンとは似てもにつかない哲学者であるが、しかし、外的な現実を幾何学化してしまっている点では共通しているように見える。 幻想説2 時間の幻想説には、ラッセルとか大森荘蔵らが唱えた別種のものもある。彼らによれば、過去は過ぎ去ってしまっており、未来はまだ起きていないから、存在するのは現在だけであり、未来から現在を経て過去に流れている行く時間という観念は幻想である、というのである。たしかに、過去は未来と違い、実際に起きた事柄である。しかし、われわれは過去を想起しているだけであり、起きている出来事を目の当たりにしているわけではない。目の当たりにしているのであれば、それは過去ではなく現在である。 ラッセルは数分前に起きた出来事はもはや夢かどうか分からないと述べて、過去の出来事を夢や幻想と同じレベルに置いてしまっている。しかし、たとえば、第二次世界大戦は起こらなかったら現代世界はまったく違っていただろうという仕方で、過去は現在を制約している。だから、過去には夢や幻想とは別の存在論的な地位を与えてやらなければならない。同様にして、未来についても、ありそうなこと(鶏卵からニワトリが生まれる)とありそうでないこと(鶏卵からウズラが生まれる)の違いを区別する必要がある。 意識説 時間を幻想とは言わないまでも、意識など人間の内面(精神)に帰そうする考え方がある。冒頭でも取り上げたアウグスティヌスはラッセルと同じく、過去と未来は見られないから存在しないとしたが、しかし、だから時間がないとは結論しなかった。未来とはまだ起きていない事柄に対する期待であり、過去とはすでに起きてしまった事柄の想起である。期待も想起もわれわれの精神の働きであるから、時間はわれわれの心の中の働きと言うべきだというのである。 意識説は幻想説の一つのヴァリエーションであると言える。意識説には、これ以外に、フッサールやすでに言及したベルグソンも属す。また、別のヴァリエーションとして、言語説がある。中島義道は過去を意識ではなく、言語的・意味論的に構成された世界に帰している。滝浦も現象学的な立場から、似たようなことを述べている。 ところで、言語は共同体的なもので、そして、人間にとって世界のかなりの部分が意味によって構成されているわけであるから、もし時間が言語的な意味であるなら(中島の意図に反して)過去はわれわれにとって現実の一部であると言わなければならないのではないであろうか。物理的現実に帰せないとすぐに意識や内面に問題をあずけてしまうのは、人間を社会や文化から切り離された個人として考察する近代哲学に由来する悪い習慣である。 可能性 幻想説2も意識説も、未来や過去は存在しないという判断から出発しているが、これは本当なのだろうか。というのも、この判断は、存在を現に目の前にあって知覚可能な存在者に限定してしまう形而上学的な先入見に基づいているからである(時間を時間軸として表象して、知覚可能な今の連続とみなせば、ベルグソンの言うような時間の空間化が生ずる)。 たしかに、この先入見によれば、未来と過去は、それぞれ予期し想起できても知覚することはできないから、存在しないということになる。しかし、未来は心の中で期待されるだけのものではなく、過去の経験や徴候から推測されるものであり、現在の現実に基づいている。むしろ、未来は現在の現実そのもののはらむ可能性である。予期や期待はこの可能性の一部である。鶏卵そのものにその可能性があるから、「鶏卵からニワトリが生まれる」とわれわれは予測するのであり、逆ではない。 過去は一度実現した可能性がその現実性を失ったもの、つまり、未来と同じく可能性である。かつて起きたことが再び起こらないかとわれわれが危惧するのはこのためである。未来と過去は、可能性だから存在しないのではなく、可能性として存在する。可能性は実現したあと、ふたたび可能性に還り、ふたたび自らを実現する機会をねらう。 独立説 ニュートンの絶対時間ように、物理的な出来事がその中で起きる、出来事そのものには影響されない不変の枠組みと見なす考えがある。この独立説は時間を主観化していない点で評価できる。しかし、同じく物理学の分野で今世紀になって現れた相対性理論によって、この絶対時間は否定されてしまった。 独立説・相関説 アリストテレスによれば、もし何も変化が起きなければ、われわれは時間が経過しているかどうか分からないであろうから、時間は出来事そのものではないとしても、出来事の一つの様相である。私もこの相関説に賛成したいが、しかし、時間は出来事のどのような様相で、どのように出来事と相関するのかというと、満足のいく説明は難しい。アリストテレスは「〈より先〉と〈より後〉ということを考慮した場合の運動の数」と定義している。時間は可能性が実現して再び可能性へと回帰する出来事の性格と定義しよう。そうだとすると、時間は流れるというよりは、やってきてふたたび去っていくものである。 補足 時間には物理的な時間と文化的・社会的な時間と心理的な時間があり、この3者はそれぞれ物理的な出来事、文化的・社会的な出来事、心理的な出来事と相関している。 現実は現在に閉じこめられたものではなく、未来へと過去へと広がっている。これは樹木がその成長への可能性を持っているとともに、それ自身の過去を年輪として保持しているのと似ている。現在の現実のこの時間的な厚みと広がりを、単なる瞬間としての現在に閉じこめてはならない。 |