哲学の事柄

倫理


事柄
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 単に良い悪いというのではなく、とくに人間の振舞いや意図について倫理的な意味で善いとか悪いとか言うことがある。「彼は困ったときに助けてくれたので善い人だ。」、「自分のミスなのだから、素直に謝れば善かった。」、「約束を守らない悪いヤツだ。」、「電車のなかでのマナーが悪い。」等々。何を基準にしてわれわれは善いとか悪いとか言うのであろうか。

 同情説
 善い行為というのは、相手のことを思いやった行為である、というのがまず出てくる最初の答えであろう。相手の立場に身を置いてみて、してもらいたいと思うことをその相手に対してなすなら、それは善いことである。逆に、されたらいやだと思うことはすべきではない。財布をなくして困っている人がいたら、自分が財布をなくしたときのことを思い出して、お金を貸してあげるべきである。「己れの欲せざる所、人に施すこと勿れ」(孔子)などといった黄金律として古くから言われてきたものであり、動かせない真実であるように思われる。

 同情説批判1
 だが、この考えには問題がある。相手が自分と同じ境遇で関心の持ち方も同じなら、想像された相手の立場は、実際の相手の立場と一致する。相手が人間以外の動物であっても、痛みを感じる身体を持つ同じ動物だからこそ、人間は動物に同情することができる。しかし、実際には、相手は自分と同じ人間であった場合でさえ、境遇や関心の持ち方、性格などは異なっている。相手について十分で正確な知識があれば別であるが、たいていは、相手の立場を想像するときに自分自身の関心や好み、あるいはステレオタイプを投影してしまいがちである。善意が押しつけになることはよくある。相手を害してしまうこともある。それに、一般的に言って、善意があっても、意図に反して相手に迷惑をかけることはあり、動機だけでは行為は倫理的に評価できない。

 同情説批判2
 また、相手を思うことは、行きすぎれば、相手をダメにすることになる。自分の子供が欲することは何でも「ハイハイ」としてやる親は、長い目で見ると、子供をダメにしている。さらに、相手が一人ならいいが、複数いる場合は、どうしたらよいのか。Aさんのことを考えればこうすべきで、Bさんのことを考えればああすべきだというとき、どちらをとったらよいのか。殺人犯からかくまってくれと頼まれたら、殺人犯の心情を汲んで、かくまってやるべきなのであろうか。同情説は社会全体に対する配慮が無さ過ぎるように思われる。

 功利説
 自分の快楽や幸福のことしか考えないのは、エゴイズムであり、倫理的には評価されない。だが、その快楽や幸福が自分が属す社会全体の快楽や幸福であったらどうであろうか。功利説(功利主義)はそのような社会的な幸福主義をとる。社会全体の幸福を構成員の快苦の総和として計算するか(ベンサム)、投票によって決めるのか(ミル)問題であるとしても、結果として社会全体の幸福が増せば、それは善い行為であり、減ずれば悪である。震災は不幸であることには変わりないが、家を失って困っている人をボランティアで援助することは、不幸を減ずる点で善いことである。

 功利説批判
 功利説は行為の結果を重視するが、行為の倫理的な価値が動機だけで決まらないように、結果だけで決まるわけでもない。母親が赤ん坊をやけどで死なせてしまったというとき、意図して熱湯をかけたのか、不注意でかけてしまったのか、ポットの構造上の欠陥によるかで倫理的に異なって評価されるが、功利説はこの違いを説明できない。また、功利説は個人と社会の関係についての見方が単純すぎるので、よく批判されるように、社会における幸福と不幸の配分を考慮できない。罪のない一人の人を殺せば社会全体が大混乱に陥るのを避けられるというとき、その人を殺すことは善いことであろうか。

 克己説
 人間は理性的な存在であると同時に、欲望や感情を持つ存在でもある。克己説(禁欲主義)によれば、理性によって欲望をコントロールしながら振る舞うことが善いことで、欲望に負けることが悪いことである。この考えはいまははやらないが、ストア派など古くからある考えである。

 理性の使用・欲望の制御・抑圧
 お店に展示しているバックが欲しいと思うことは誰でもある。しかし、その欲望をストレートに充足しようとしてバックをそのまま手にとって持って行けば、それは盗みとなる。しかし、そのバックがどのようなシステムを前提としてそこに置かれているかを理性的に判断できれば、お金を払って購入するとか、あるいは、お金がなければお金を貯めるなどして、盗みという悪を避けることができる。同じく欲望を充足するのでも、それをコントロールできるかどうかで、悪かどうかが決まってくる。欲望は制御されるだけでなく、抑圧できればなおのこと善い。道で倒れている人を介抱してやることは、いまから恋人に会う、あるいは、いまから試験を受ける自分を犠牲にすることであるから、より善いことである。自己中心主義の人間はこれができない。

 人格の完成
 自分を抑えるには努力と忍耐が必要であるが、これを繰り返すことにより、情念や欲望に煩わされない境地に達し、自然と自分を抑えることができるようになるであろう。こうして、人格が完成される。

 克己説批判1――自己と他者のあいだ
 だが、理性の使用や欲望の制御・抑圧というのは、もっと基本的なことの派生的な側面にすぎないのではないか。本当は、他人や社会全体のことを考えて振る舞うべきなのであるが、その際に理性を働かせ、場合によっては欲望を抑える必要が出てくる、ということにすぎないのではないか。自分自身の人格的完成が目指されるべきだとすると、他人は自己の完成のための手段に堕してしまわないであろうか。倫理は人と人とのあいだに生ずると思われるのに、克己説は倫理の中心を自己に置こうとする。

 克己説批判2
 また、人間は動物である以上、食欲とか睡眠欲とかいった、生きるための基本的で自然な欲求があり、これは抑えつければよいというものではない。自分の利益や快楽が高まるように冷静に計算するのは理性的な思考であろうが、それは打算と呼ばれても、善い行為とは評価されない。

 秩序説
 諸個人が無関係に行動しているなら、われわれの行為に物理的・肉体的な制約はあっても、倫理的な制約は存在しない。しかし、共同生活を始めるなど関係を結べば、バラバラでいたときとは違う仕方で振る舞うようになる。それはちょうど、多細胞動物を構成する一つの細胞が単細胞動物とは異なる仕方で振る舞うように。社会のなかでは、個人の行為はバラバラのときになかった規制を受ける。2人の人間が共同で畑を耕そうとするだけでも、仕事する時間や方法などについて、いろいろな約束事が必要となってくる。これが倫理や法律である。このような規制ができると、規制を守ることと破ることが可能になるが、これが善悪である。秩序説は、秩序を維持し強化する行為が善い行為、秩序を乱す行為が悪い行為であると主張する。

 生体の比喩
 生体は部分的に損傷を受けたときに、再生しようとする。それと似て、人びとがボランティアで震災被災者たちを助けるのは、同情からというよりは、個々人を結ぶネットワークが機能しにくくなるのを社会自身が避けようとするからである。生体が毒やばい菌を殺したり外部に出そうとしたりするように、社会は内部の、あるいは外部からの反乱分子を閉じこめたり追放したりする。
 
 規範性・当為
 「個人がバラバラであったとき」というのは、もちろん、社会の拘束性を説明するための仮構にすぎない。あるとすれば、社会的拘束が弱く個人が比較的分散している状態である。社会的拘束の強い弱いの違いはあれ、社会性は人間の本質に属する。それでも、個人は社会に完全に従属した存在ではなく一定の自律性をもつので、社会と個人、全体と部分のあいだには落差がある。社会は個人において規範としてその行動を。個人にとってそれは当為として意識される。

   秩序説批判とそれに対する反論1――複数の秩序
 倫理を社会の秩序に基づかせようという秩序説に対して、当然、秩序そのものが悪い場合はどうなるのか、という疑問が出てくる。だが、社会が複数あるのだから秩序も複数あるし、また、秩序にはレベルに違いがあるので、ある秩序が他の秩序を基準として倫理的に評価されることはある。昔の秩序が否定的に評価されたのなら、それは現在の秩序を基準として、現在の秩序のなかの相当物が評価されているのである。泥棒集団はどれほど統制がとれていても、大きな社会のなかでは秩序を乱す存在であるので、悪として評価される。

 秩序説批判とそれに対する反論2――相対主義
 社会は複数あるし変化するものなので、善悪を社会の秩序に基づかせるなら、相対主義に陥るという批判が出てくるであろう。絶対的な秩序は存在しないであろうから、善悪はもちろん相対的なものである。だが、ここから、善悪はどうでもよいとか道徳は規範性を持ちえない、という結論は引き出せない。というのも、どんな人間も自分が生きる時代を抜け出すことはできないし、他の社会とのあいだを自由に行き来できるわけではないからである。つまり、どんな個人にとって特定の社会秩序がほとんど絶対的である。また、社会には、身だしなみやマナーから「殺すかなれ」など、生命秩序に近いものまで、さまざまな層があり、基本的な層は変わりにくく、逆に、表層の秩序は変わりやすい。

 秩序説批判とそれに対する反論2――虚無主義
 さらに、人間は本質的に社会的な存在なので、そして、社会には秩序が必要なので、その秩序がどのようなものであれ、道徳性は人間に本質的であると言わなければならない。ニーチェは弱者が強者に対するルサンチマンから道徳を捏造したと主張したが、しかし、支配者集団の内部で強者たちが互いに関係し合うためには一定の秩序が必要になってくるであろうし、強者は弱者あっての強者であるから、弱者を殲滅することはできず、弱者と一定のルールでつきあっていかなければならない。

 秩序説批判とそれに対する反論3――律法主義
 規則が善悪を決めるという秩序説に対して「それは律法主義だ」という批判があるかも知れない。たしかに、ただ規則だからそうするというのでは、倫理的には評価されない。また、人間が行為する状況は具体的でユニークだから、規則を杓子定規に適用すべきではない。これに対しては、規則と秩序を区別することによって反論したい。規則は秩序とは異なり、秩序のうちの基本的なものを定式化にしたものにすぎない。人間は他人と関わるという経験を積んで、これを守れば人間関係を維持しやすいということを規則としてまとめたのである。だから、規則に頼れない複雑な状況では、あくまで、秩序が維持されるように行為すべきなのである。秩序を守ることは、同じ秩序を共有する人びとのことを思うことに結果的につながるのである。