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編集後記 田中琢三

ハイジのブランコとアンガージュマン
      
 私の論考「高畑勲とフランス文学」のねらいは、そのタイトル通りでもっぱら高畑さんがフランス文学と関係が深い文化人であることを示すことにあった。決定稿では削除したが、もともと論考の最初の段落は以下のようなものであった。

TVアニメ『アルプスの少女ハイジ』のオープニングに登場する印象的な長いブランコのシーンは、高畑勲が「ブランコに乗っていると高い所から普段とは違う風景が見える」という内容のフランス詩からインスパイアされたものであるという(『「アルプスの少女ハイジ」小田部羊一イラスト画集』、廣済堂出版、2013年、94頁)。私はこのことを知って非常に興味を引かれるものがあった。なぜならこのエピソードは、フランス文学に関する知識や教養が高畑のアニメ制作において少なからぬ影響を及ぼしていることが示唆されているからである


 この文章をなぜカットしたかというと、字数制限の問題もあったが、何よりも高畑さんが「インスパイアされた」という「フランス詩」を見つけることができなかったからである。ブランコはフランス語ではbalançoireというのが一般的だが、古風な名詞でescarpoletteというものもある。これらの単語を使ってインターネットで検索したり、網羅的ではないが高畑さんが愛したジャック・プレヴェールの詩を調べたりしたが、それに該当するような作品は見当たらなかった。今となってはご本人にうかがうことができないのが残念であるが、このような内容のフランス語の詩に心当たりがある方がいらっしゃれば教えていただければ幸いである。
 プレヴェールの詩集『ことばたち』の高畑さんによる翻訳と注釈を読むと、このアニメ監督が恐ろしいほどの完璧主義者であり、何事も粘り強く突き詰めて考える人であったことがよく分かる。私は文学研究者のはしくれとして尊敬するばかりであった。自分でいうのもおかしいが、ブランコに関する詩を発見できなかったことにもあらわれているように、私は性格的にあきらめが早く、面倒なことは極力やらない主義である。そんな私とは対照的に、高畑さんは研究者に必要とされる丹念さ、正確さ、根気強さを併せ持たれた知識人であり、文学研究の世界に進まれていたとしても必ずや成功されていたことであろう。
 私は論考の結論部で、高畑さんのフランス文学関係の仕事がジャン=ポール・サルトルのいう「アンガージュマン」の実践ではないかという見解を示したが、最初からこのような問題意識があったわけではない。文章全体をまとめるにあたって何かキーワードがないかと考えて頭に浮かんだのが「アンガージュマン」であり、いわば後付けである。しかし、政治や社会に積極的に関与することを意味する「アンガージュマン」というフランス語は、サルトルが人気を博した1950年代には日本でもかなり流通していたと思われ、時代を象徴する言葉でもあるので、この語をクローズアップして正解だったと思う。
 興味深いのは、私の論考を読まれた方の多くがこの「アンガージュマン」の問題に関心を寄せられることである。今では滅多に使われない言葉なので逆に目新しく感じられるのかもしれないが、文学が社会や政治に与える影響力が少なくなった現在において、戦後の価値観の変革期に大きなインパクトを持った「アンガージュマン」の思想が魅力的に感じられるということもあるのだろう。ちなみに私の研究対象であるエミール・ゾラやモーリス・バレスは、19世紀末から20世紀初頭にかけてドレフュス事件をめぐってまさに「アンガージュマン」を実践した文学者であり、サルトルや高畑さんの先駆者といえるかもしれない。
 以上、つらつらと自分のことを書いてしまったが、『高畑勲をよむ』の出版が多くの関係者のご尽力の賜物であることはいうまでもない。それに応えるためにも、これから対面の授業や会議が増えるであろう大学のキャンパスでこの本の宣伝に努めていきたい。