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哲学の原義と諸学の独立 哲学は語源的には「知を愛すること」(愛智)を意味する。しかし、知を愛するというなら、それは学問・科学の全体に当てはまる。それどころか、知を愛することは学者や研究者でなくてもやっている。実は、これには歴史的な事情があって、アリストテレスの哲学体系が物理学から政治学、詩学まで含んでいることから分かるように、もともと哲学は学問一般、知の営みの全体を表した。ところが、のちに、神学や物理学、生物学、政治学など、いろいろな科学が哲学から分離独立し、哲学と言えば、形而上学や倫理学といった狭い範囲を意味するようになった。こうなると、哲学を愛知と定義したのでは十分ではない。 哲学と科学 哲学も科学も愛智であるが、哲学は科学とどう関係し、どう違うのか。今のところ哲学固有の領域と思われているものが科学として独立してしまえば、哲学は消失してしまうかも知れない。だから、諸学の独立過程が始まったあとでは、哲学はしばしば科学との関係にこそその存立根拠を持つ。 たいていは科学との違いが強調される。ある場合は、科学が外部からの観察によって対象を理解するのに対して哲学は反省を方法とするというように、哲学の固有性は方法に求められた。「反省」は内側からの理解、自覚などとも言い換えられる。分析に対して直観、科学的理解の部分性に対して理解の仕方の統一性(中村雄二郎)や包括性(ジェイムズ)に求められることもある。哲学を知識の統一、諸学の学と見なす西田幾多郎はこれに近い立場である。 他の場合は哲学の固有性は、(方法の固有性と切り離せないが)対象に求められた。部分や現象を対象とする科学に対して、哲学は全体を対象とするとか、また、根拠や原理、条件を問うとか言われる。ハイデガーは存在の想起を哲学と呼ぶ。新カント派の哲学者は科学に事実を、哲学に価値(ヴィンデルバント)や人の価値観(岩崎武男)を割り振る。 ラッセルのように「まだ科学的に扱うことのできない諸問題の総体」と定義して、哲学の消失を予想する哲学者もいる。 根拠を問う知 哲学は根拠ないし基本を問う、あるいは、物事を根本から問う知であるという考えに私は同意する。根拠とか基本とかということで何が意味されているかは、やはり哲学者たちによって少しずつ異なる。根拠を現象の背後に求める者も、認識の可能性の条件、知識の枠組みというように認識の側に求める者もいる。 私にとって根拠とは、存在や生命、歴史のように、われわれがそのうえに立っている前提のうちでも最も基本的なものである。たとえば、明治維新やフランス革命に関心を持つとき、それらが歴史であることは自明な前提とされていて、意識されたり問われたりしない。たとえば、何のために人は生きているのかと問わずにわれわれは生きている。しかし、これらの前提が崩れれば、過去に関心を持つことも、日々の生活を送ることもそれ自体が危うくなる。このような意味で、歴史の本質や人生の意味は基本的なものである。 科学と前提 たしかに、科学もまた、通常は疑問にも思われない自明な事柄に対して、あえて疑問を抱き説明を試みる(科学も祖先は哲学なのだから、当然だ)。自明なこととは、たとえば、物体は支えがないと下に落ちるとか、日本で生まれ育ち生活している人にとっての日本語などである。物体の落下は誰もがいくどとなく経験しているはずだが、ニュートンはそこから万有引力を直観した。日本語を話すときにわれわれは自分が従っている規則性(文法)を意識しないし知らないが、言語学者はその規則性を引き出す。子は親に似ているのは当然だが、それがどのような仕組みで起きるのかを、生物学者は解明する。 しかしながら、科学は細分化され、対象は限定されているから、科学者が問えるのは、そのように限定された領域に支配するかぎりでの前提、つまり、浅いレベルの前提である。生物学者はDNAのある部分の解読にいそしんでいて、生命とは何かという根本的な問題をなおざりにしている。 哲学者と科学者 実を言えば、科学者も偉大な科学者であれば、その学問が危機を迎えるとその最も基本的な前提に立ち戻ろうとする。ハイゼンベルクは古典物理学が崩れようとしていたときに、現実や現実と言語との関係について考えた。このとき、科学者と哲学者の間に違いはない。このことは科学者に限定されない。日常の人もまた、思春期に人生の意味や目的について考え始めたり、友人の死をきっかけに死について考え始めるなら、それはもう哲学である。哲学にどんな特権もなく、すべて人が哲学者たりうるのである。ここに哲学の開放性ないしは素人性がある。 科学者は危機のときにしか哲学者にならない。日常の人もほんのときたましか哲学者にならない。しかし、1)哲学者はより頻繁に哲学している(常にというわけではないだろうから)。しかも、2)これまで哲学的な問題を考えてきた過去の哲学者たちについての知識を利用しながら、事柄を問う(残念なことに、逆に知識に利用され知識に溺れている哲学研究者もだいぶいるのだが)。それから、すでに述べたように、3)哲学が問う根拠は、科学が問う前提よりもさらに深いレベルにある、いっそう基本的な前提を問う。4)このような基本的な前提は、当然、人間の全体、現実の全体に及ぶような全体的なものである。 誰でも死ぬことは分かっているが、哲学者はその死をあえて問題にする。目の前の花瓶も重力も日本国憲法も存在しているが、存在していることの意味を哲学者はあえて問う。これらは根本的すぎて、簡単には解決がつかない問題ばかりである。 |