存在 | 認識 | 言語 | 歴史 | 芸術 | 自由 |
生命 | 人間 | 自我 | 時間 | 善悪 | 権力 |
相対主義の自己否定? 相対主義は自らを呑み込むという主張があるが、本当だろうか。相対主義が「すべては無価値(無意味)である」、「物事を測るどんな基準も存在しない」というような極端でニヒリスティックな、積極的な主張であれば、相対主義も他のものと同様に無価値であるということになって、確かに、自らを否定することになる。 相対主義の消極性 相対主義はしばしばそのように誤解されやすい。しかし、相対主義はニヒリズムとは区別される、もっと控えめな主張なのである。それは本来、絶対的な(つまり、どんなものにも永遠に当てはまる)価値やその基準の存在を否定するだけの消極的な主張である。絶対的なものを否定したからといって、絶対的なものと絶対的に無価値なものとの間にはさまざまな段階があるわけだから、もちろん、すべてを否定しているわけではない。線分の端点の一つが除かれたからといって、線分の残りの全体が消えるわけではない。 ファラオの権力──「絶対性」の相対性 ファラオと呼ばれた古代エジプトの王の権力はいまは、ピラミッドのような歴史的な遺跡として残ってすぎない。ファラオの権力は現在は存在しないし、古代のアメリカ大陸や東アジアにその権力は届かなかったに違いない。だから、ファラオの権力は絶対的なものではない。しかし、古代エジプトに住んでいた当時の人びとにとっては、それはほとんど絶対的であった。しかし、その「絶対性」はファラオの支配下の人びとにとってのみ成り立つもの、したがって、相対的なものなのである。 相対性の絶対性 かりに永遠不滅の生命を持つ存在者がいたとしたら、ファラオの権力が続いた時代は彼にとって一瞬の出来事にすぎないから、その権力は絶対的なものではなりえない。しかし、実際には、人間は限られた寿命を持ち、社会や文化、伝統に支えられ縛られて生きているのであるから、古代エジプトに生きていれば、ファラオの権力を無視しては生活できなかった。われわれが現実に経験するような「絶対性」、今の例で言えば、当時の人びとが経験したファラオの権力の「絶対性」は、有限な存在にとってのみ可能なのである。絶対性と思われているものは、相対的なものと相対的なものとの極端な不釣り合いのことにすぎない。だが、われわれ有限な存在にとって、この相対的な違いがとても重要なのである。 誤解の原因 絶対主義者(という言葉はあまり聞かないが)がいるとすれば、その人は絶対的な価値を信じているような人であろう。絶対的なものを認めるなら、他のどんなものもこの絶対的なものの前では無価値なもの、つまらないものであるに違いない。だから、相対主義者が絶対主義者に向かって、「絶対的な価値は存在しない」と言えば、当然、絶対的なもの以外は無価値なものしか残っていないので、「相対主義はすべての価値を否定する主張だ」と受け取るのである。相対主義がニヒリズムと取り違えられやすいゆえんである。 静態的平等主義の誤解 相対主義は静態的平等主義に陥りやすい。「どんな文化もそれなりの価値体系と論理をもっており、尊重しなければならない、自文化の価値で異文化を価値判断してはならない」とは、文化人類学の教えである。だが、すべての文化を平等に等距離で見渡し評価することのできる人類学者はいない。どんな人類学者もその出身の文化や伝統を担っており、同時にまた、欧米で発生した人類学者共同体という学者集団固有の理論や概念体系を引きずっている。フィールドワークにおいて異質な社会に入り込むとき、自文化を脱ぎ捨てて透明人間になりきり、人びとを観察するということはできない。そこにはどうしても、自文化と異文化の衝突や融合が起きるのである。 価値体系の優劣および葛藤 相対主義はすべてが等価値であるという主張ではない。すべてを等距離で見渡すことのできる超越的な存在はいない。実際、絶対的なものと絶対的な無価値との間には、さまざまな段階や違いがあり、文化・社会には規模や勢い、組織性などの点でさまざまな違いがある。優勢な文化は劣勢な文化を呑み込んでゆく。前世紀以来、西欧文化は優勢な文化であり、文明としてアジアやアフリカの民族文化を同化し破壊し、そして自らを変容させていった。人類学者のフィールドワークも宣教師の活動も、このような文化の伝播の観点から理解されるべきである。 相対性の諸レベル 相対主義はあらゆるレベルに適用されるべきで、文化的相対主義に限定されない。ある時代の人類に、あるいは、どんな時代の人類にも共通な価値観のような、文化と比べて一段高いレベルの価値観は存在するであろうが、それは人類に限定されている点でやはり制限されたものである。サルの価値体系、ハエの文化とは言わないが、他の生物にもまたそれなりの秩序や生活様式があり、人類の価値観や秩序もまた、そのような、地球上に棲む諸生物たちの秩序や生活様式の中の一つにすぎない。逆に、文化よりもレベルの低い相対性も存在する。日本文化の中の関東文化と大阪文化、ある学校の校風と別の学校の校風、個人と個人の価値観の違いなどが、そうである。レベルの違いを無視して、相対主義を主張すると混乱する。 ダイナミックな相対主義 以上のように、ニヒリズムや静態論的平等主義から区別され、さまざまなレベルで考えられた相対主義は、「ダイナミック相対主義」と名づけられる。そのような相対主義もまた、多くの中の世界観にすぎないという意味で、やはり相対的なものであるが、それはもちろん、相対主義が他の世界観と、等しい妥当性しか持たないということではない。私のように相対主義を信じている者にとっては、それは「絶対的」なものであり、相対主義者は相対主義をあくまで主張し、非相対主義者たちを説得しようと努める。この努力が実を結んで、相対主義が現在よりもさらに広がり(普遍性とは言うまい)と勢力を得る可能性はある。 |